屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.303 屋久島(158):落下傘候補のこと  (H21.04.28)

町長の疑惑追及の活動に住民が黙っていると嘆いているあるブログを見て、その訳はと考えたりしていて、「No.297 むかし的なこと」、「No.302 税金とみること」では住民生活の歴史にその一端があるような気がすると述べている一面もある。それは住民側自身の問題なのだが、また一方では表立って問題指摘・批判をするよそ者・移住者側が住民の信頼を得きっていない面があるかもしれないと見ている。

私には過去に環境活動家みたいな人とか革新政党の人とかオンブズマンという移住者たちが目立つ行動を起こしては消えて行ったという印象がある。そこでなぜ彼らの活動が続かなかったのかとか、なぜ地元の人たちに受け入れられなかったあるいは受け継がれなかったのか。その答えの一つにそれもありそうなだと思うのである。こういう見方が当たっていなければ幸いである。私は今回の活動の流れが広がって持続し住民に受け継がれて行くかどうかがその当否の答えになると思って見ている。

最近ある屋久島関係のブログなどで次期の町長選に落下傘候補を立てたいというような記事があった。落下傘候補がタレントとか名の売れた有名人ならその知名度だけでも選挙を戦えるだろうが、落下傘候補推薦団体の眼鏡にかなった人物が当地であまり名の知られていない場合、選挙ではその推薦団体メンバーが活動しまくらなければならないと思われる。そして住民のその人たちへの信頼がなければその成果はあがらない。

私は行政の問題や風土が改善されることを望んでいるが、過去に表立って問題指摘や批判をしてきた人たちの活動にあまりよい印象を持っていない。その轍を踏むと住民の信頼は得られないのではないかという気がするので、落下傘候補推薦団体が出来るとすれば慎重に謙虚にやって欲しいと思っている。

正義感それ自体はよいのだがその発露としての言動についてはそれを住民がどう受け取っているかというところ注意する必要があると思うのである。例えば最近で気になったところでは、人物や風土に対する罵倒的攻撃、特定の人に対してかもしれないがそれが明示されず、田舎の人は表面は純朴そうでも、実際は勘が鋭く、利に聡く、いわばずる賢いという評、そして地元の人は力がないから表に出られないので自分たちが出ているという言葉、そういう表に出てきた言葉を見聞きして地元住民はどう感じるかということである。正義の候補を選んで欲しいと頼むべき住民は、感が鋭く、ずるではないが賢いから、上から目線で言うのを見つつどう思うかということにもう少し気を遣うべきである。

私が過去の事例で感じていたのは以下のようなことである。よそ者の移住者である私でも感じたのだから地元の人はもっと敏感に感じていたはずである。都会で理想と正義感が空回りしていたあるいはそれを主張する自信も勇気もなくて黙っていた人間が、田舎ではその思いが遂げられると傲慢になって理想と正義の追求に走っているのではないかと。

移住者を見る地元の人の目はまだ半信半疑という感じがするのである。正義の追求が行き過ぎて田舎社会の良さを壊しやしないかなどと不安がある。変革には不安が付き物だが、その不安解消にも気配りした活動が必要である。地元住民は問題点指摘や責任追及活動の正否は分かっているはずである。しかしながらなぜ黙っているのかということにもう少し思いをめぐらす必要があると思われる。


No.297 屋久島(154):むかし的なこと  (H21.03.16)
No.302 屋久島(157):税金とみること  (H21.04.27)


 
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