屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.297 屋久島(154):むかし的なこと  (H21.03.16)

都会から田舎に移住した人の理由でよく聞くのは、自然豊かで汚染されていない、気候がよいなどの環境条件、山登りや釣りその他の趣味が手近で出来る、自分のやりたい仕事で生計が立てられるあるいは生計維持しやすいというような地理的経済的条件である。そしてまた都会より人情が厚い、ゆったり気楽に暮らせるという居心地を挙げる人もいる。

私の場合は、屋久島移住の切掛けや理由はいろいろ挙げているが、言うときの状況でどれかを強く意識しているだけで、いろいろな要素を総合判断した結果と言えば格好いいがありていに言えばそのときの気分でということである。なんとなくエイヤッと決めて移住したが、都会での生活様式をほとんど変えず比較的人工的な感じの少ない土地で人にあまり干渉されず暮らせる居心地にそれなりに満足して暮らしている。

それでも健康問題については加齢によって住む場所の如何を問わず発生してくる。それは覚悟の上のことで問題の中身は気になるが問題が発生すること自体は想定済みのことで気にならない。しかし日常の生計維持とそれを支える経済的環境についてはときに想定に反して従来の感覚が通用せず新たなストレスを感じることがあった。

当地でちょっと大きな金がかかりそうな仕事を頼もうと思っても見積もりが取りにくいことがあった。注文するかどうか分からないと細かい情報が取れなかったり、聞いているだけなのに注文したかのように動き始めようとするので話すのが恐い感じがしたりしたことがある。

またやってもらってもクレームが付けにくいこともあった。私の要求基準がべらぼうに高いものではないのだが、これではおかしいのではと言うとこんなものだといなされてしまう。また不具合箇所を指摘して直しを頼んでも半年もほったらかしということもあった。

クレームについては受け手側が仕事の成果の良し悪しが問題と受け取らず自分自身が非難されているという受け取り方をして被害者意識があるようである。あるいはまた全部只でやれというように受け取って客が何を解決したいか考えて対処しようというよりは出費の被害を抑えたいという意識が働いているのではないかと思われる。

こちらは問題を解決したいからそのための自分の解決案を提示しながらクレームする。こちらが言うことが最適ならそれでやってほしいし、他のよい案があるならそれを提案してほしい。サービスの範囲を超えてお金がかかるならどのくらいかかるのか提示があれば、それも加味してするかしないかあるいは候補案の検討・選定ができる。それなのにクレームをつけると頭から文句が多いやつという反応で感情的に応対されたこともある。

都会でもそういうことはまったくないとは言えないが、ほとんどの場合それなりの情報提供があり仕事の頼み方や仕方にもルールが見え易い。最近は大分変わってきたが、当地では一例を挙げればGSでガソリン価格が表示されていないところや値段が明示されていないところも結構あった。需給情報や価格情報を利害が共有する関係者間で囲い込んで、その結果客は業者の言いなりではないかと疑心暗鬼にさせるところがあったのである。

そういうことに違和感を持ちながらも長く暮らしていてなぜなのかと考えているうちに、離島で外部との往来も大変だった時代が長かったためにむかしのお互いに支えあうことで暮らしを成立させてきた「いちば」的取引きでの人間関係のなごりが未だ強く残っていてそういうところに出てきているのではないかと思うようになった。

人はそれぞれに自分が分けてあげられる物を持って「いちば」にやってくる。それらを交換しあいそれぞれ自分の生活に必要なものを手に入れる。互いに知った顔と顔を突き合わせ現物交換することでお互いに支えあってきた。そういう生活の知恵・経済の原点が未だなごりをとどめているのかもしれないという気がしてきたのである。

そして田舎暮らしをしたいという理由に環境条件や地理的経済的条件とともにあるいは特別に情の厚さを挙げて、田舎の人たちは優しく温かいとか田舎暮らしでほっとすると言う人は、むかしのなごりのお互いの支え合いの温かみみたいなものを無意識に感じ取っている人あるいは意識の中にむかしのなごりが潜在的に残っていて田舎暮らしに郷愁を感じている人なのかもしれないと思ったりしている。

つまり、むかしからのお互いの支え合いの温かみは田舎の大きな魅力のひとつになっているのだが、その反面それなりの出来映えは求めても高い完成度を追求することなく時代を過ごしてきたむかしのなごりの負の側面が尾を引いて私に違和感を持たせていたのではないかと思うのである。

そしてそういう気配は政治・行政にもあるようで、従来からあまり批判されることなくなされてきたやり方に島外から来た人たちあるいは都会で活躍してきた人たちは違和感や疑問を感じていたあるいはいるのではないかと思われる。それでもむかしは移住者やその類の人たちは現地に溶け込むことに精一杯だったためそういうことはあまり表に出てこなかったと思われる。しかし年月の経過と人数の増大につれ大分前から徐々にそれに対して表立って異議を唱える動きが出てくるようになってきたように見える。

その動きが昨今の町長多選阻止運動とか行政関連の訴訟につながってきているように思える。それらの動きはむかしのなごり的意識からの転換を求めていると思われるが、なかなか地元に浸透しないようである。そこにはセーフティネットがどうなるか分からない変革でお互いの支え合いの温かみが失われやしないかという危惧があるのかもしれない。むかしながらのお互いの支え合いの温かみが頼りの人たちは新しいやり方のもとでの生活がどうなるか見きわめがつかず黙って様子を見ているところだと思われる。

補足: 助っ人のこと  (H21.03.24)

上記本文は、2週間くらい前に屋久島関係のあるブログで町長疑惑追求の活動に人々が黙っていると嘆いていた記事があったので、なぜ地元の人たちが黙っているのかなという理由も考えてみた一面もある。今まで報道や他のブログを見ていた限りでは移住者の有志が立ち上がったという印象を持っていたからである。

今日そのあるブログを見たら、地元の人たちで問題意識を持っている人は多く、その人たちの助っ人として都会の仕事でもまれ論戦などに慣れた移住者が表に出る役目をやっているというような記事が出ていた。助っ人的だったかどうかは知らないが、私には過去に環境活動家みたいな人とか革新政党の人とかオンブズマンという移住者たちが目立つ行動を起こしては消えて行った印象がある。そこで私は今回の活動が持続し地元の人たちに受け継がれていくかどうかに興味がある。


No.302 屋久島(157):税金とみること  (H21.04.27)


 
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