屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.65  靖国参拝のこと(1) (H13.08.20)

小泉総理が自分の気持ちとして、8月15日終戦記念日に靖国神社に参って戦没者に哀悼の誠をささげたい、そう言っていた。実際はいわゆる熟慮に熟慮を重ねた結果8月13日参拝という結果になった。

小泉総理が国会などで自分の気持ちとして純粋に哀悼の誠をささげるだけなのに、なぜ参拝してはいけないというのか解らないとさかんに言っていた。TVでは総理が「同期の桜」という本を愛読し、特攻隊員の遺書に涙を流すと純粋さをPRして追従していた。小泉総理はメディアの利用がうまい。しかし純情ムードをもりあげれば済む問題ではない。

私は小泉総理の自分の気持ち(自分の感情)の問題だと言う姿勢あるいはメディアの報道に疑問を持っている。小泉総理は自分の気持ち(政治的信条)の為に参拝したかった。そしてそれに執着して現在の政治と過去の歴史の共通認識を棚上げしようとしているかと疑われ韓国、中国との外交不安を招いた。

政治的にみれば、純粋な哀悼の念と国民感情、政権への思惑および周辺国の思想や思惑と国民感情を踏まえて、国内外へ日本のメッセージを伝えようとする気持ち、それが総理の言う自身の気持ちというものだと誰でも考えてしまう。今回純粋に自分の気持ち(自分の感情)でと政治を政治でないとメディアが煽った総理のパフォーマンスは不成功に終わった。

特攻隊の遺書に涙を流すいわゆる純粋な気持ちで考えれば結論は参拝しないに決まっている。残された者の平和と幸福を願い望まぬ死を受け入れた英霊は残された者の生活を不安にするようなことを望んでいない。自分たちをだしにして生者の論理を主張することを望んでいないと思うからである。参拝を美談仕立てにカムフラージュするかのように自分の純粋な気持ちの問題だと言う小泉総理の姿勢に私は違和感を持つのである。

No.163 靖国参拝のこと(2) (H16.12.06)
No.219 ついに今日靖国参拝のこと  (H18.08.15)


 
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