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私がリクルートにうさん臭さを感じたのは、何十年も前のことだが会社でリクルートのシステムだとかいう適性検査みたいなものを受けさせられその結果を配られたときである。検査は数多い設問に何択かの中から答えを選択するもので、ごまかしも見破れるように設問が設定されているというはなしだった。私は望ましいと思われようという気はなく思ったままの選択肢を選んだのだが、結果通知では自分が思っている自分が否定されるような分析結果になっていた。
自分でこう生きて行こうという気持ちあるいは自分の生き方を否定するような内容で会社生活ではあまり歓迎されない人間のような評価だと私は受け取った。私は企業に適合した人間ではないと宣告されたような気分になった記憶がある。何か会社に働く人間像に好ましい枠があってその枠から外れていると告げられて改善を迫られるとなれば、自分としては生きにくい日々を過ごさなければならない。そしてそういう諦観を植え付けるようなシステムを企業に提供しているリクルートに負のイメージを持ってしまった記憶がある。
日本中の企業にこういうシステムを提供して好ましい枠への適合性の優劣を判定するような人材評価が蔓延したら、人材の多様性もリクルートのお眼鏡にかなわないと評価されない生きにくい世の中になってしまう。そういう自覚がないいわゆる優秀な人間が自分の信じることだけでシステムを作り運用する。そうなればそれなりの程度でしかない大多数の人間は選別される側になって、社会が一部の優秀そうな人間に牛耳られることになるからその他大勢は生きにくくなる。そんな気がして私はリクルートと聞くと何となく敬遠するのが得策というか、リクルートに関係ない暮らしで結構という思いで過ごして来た。
最近、ネット記事を見ていたら、リクルートがリクナビにおける内定辞退率データを顧客企業へ売却したことが問題になっているようである。就活生のほとんどが利用するようになっているリクナビのインプットデータをもとにして、利用者に一切承諾を得ることなくAIで勝手に分析して内定辞退率を予測して顧客企業に売り飛ばしたということである。
リクルートには優秀なデータサイエンティストが多数いるということだが、企業倫理としてビジネスとしてがやることの良し悪しが分からないのか、あるいはそれに頓着なくやりたいことをやってしまうのがリクルートのいう優秀人材なのかということが問われる事態のようである。また企業もそれぞれの多様性、自社の在り方・予測判断の独自性を自ら否定するように他人の作ったシステムを信じて利用する自信のなさに、嘆かわしさを感じさせる事態である。リクルートも利用企業も日本の均一化に資したり毒されている感じがして、生きにくい社会づくりが進んでいる元凶のひとつかもしれない気がしてくる。
世の中はいまGAFAなど個人に係わるビッグデータを個人を特定可能なかたちでAI分析し利用する企業などに警戒すべしという流れになって来ているが、そういう行動をする企業や団体などが世の中の支配権力と化する心配はむかしからあったのである。
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