屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.236 魔法の鏡のこと  H19.01.29)

前回の「偏見ご免のたわごと編No.235:愛されるのこと」の続きである。前回の末尾に「問えば、あなたが一番美しいと必ず答える鏡より、あなたは美しい、しかし一番美しいのは白雪姫と答える魔法の鏡の方が価値がある。しかし魔法の鏡は本当のことを言うから、(自分が一番でないと気がすまないような人には)恐いということもある。」というようなことが書いてある。これは魔法の鏡のような存在は権力を持つものがやりたい放題をしたいときの歯止めになるだろうという例え話である。

ところが時に世間では自分が見聞きした事実やそれに対する率直な自分の意見を言うような人間はなんとなく異質な存在と一面で思われているところもある。いわゆる王様の耳はロバの耳というものや王様は裸だというもののような存在である。そして童話では王様はロバの耳とか裸だとかいうのは大体が子供かうすのろという設定になっている。

賢そうで自分の身が大事なほとんどの人間は、権力や権威ある人のすることや言うことに口をつぐみ同調する素振りをして、自分が本当に見たり感じたりしていることを表に出さない。仲間うちや職場その他の狭い社会では、異質な存在はいわゆる空気を読めないやつ、価値観を共有しない人間というような歓迎されない評価をされるのが一般である。

またそちらこちらの何らかの小さなつながり範囲のなかでもちょっと力があって声が大きく主導したがる人間に靡かず思ったことを言う人は胡散臭く思われ嫌われたりするものである。そして声の大きい人間が嫌って言う陰口を大方の人間は実際見聞きしていないのに信じて件の人を敬遠したり疎外することも多い。

このように童話の子供とかうすのろではない人間も権力や権威を恐れ強いものに靡き易くまた周囲に疎まれることに敏感な面を持っている。そして見聞きした事実に口をつぐんだり、はっきりしないはなしに同調したり、自分の本当の意見を言うことを避けたりする。それが処世術であると意識しているうちはまだ良いのだが、次第に自分が流されて為していること言っていることがみんなの総意みたいになっていくと抜き差しならなくなってしまうことがある。そしてそういう状況が発展すると問題行動に同調して疑問を封印してしまうようなことになりかねない。昨今で言えば、例えばイラク攻撃問題、例えば学校のいじめ問題にもこういう一面があると思われる。

私だって、噂話を聞いて確かめもせず、あいつはこういうやつらしいから敬遠しようとか思ったりしたことは多い。誤解して殴ったことさえもある。ときにそれで人間関係に齟齬を来たして反省することもあった。人は私自身のことからも考えてみれば、乗せられたり影響されて簡単に必ずあなたはが一番美しいと答える鏡になりやすいと思われる。私について言えば、そういう鏡になれと言われればすぐそういう鏡なってしまう可能性が高い。魔法の鏡でいられるかどうかは自分の問題でもあるのだが、いられそうもない自分の弱さが私には恐いということもあるのである。


 
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