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7月初め、散歩で会うとよくはなしをしていた私より1~2歳くらい若いひとが亡くなった。5月ころには会った記憶があるがその後雨が降るようになって散歩に出る日が減ってそのひとの家の方を回るコースの頻度も減っていた。そのせいもあるかも知れないがたまに通ったときには会わなかった。どうしているかと思っていたら7月初め集落の放送で亡くなったのを知った。
私もそのひととあまり年は違わないので何となく沈んだ気分になってしまった。そして思ったのだが、世界や周辺の情勢に日本がこれからどうなるかとやきもきしてもその将来に私はいない可能性が大である。
そうならばこのさき生きて行くひと達が選んだ結果でそのひと達が生きて行けばよい。そんな気になってきた。私が心配するような将来が来て彼らが後悔しようが彼ら自身の選択の結果である。また私がやきもきしていることが的外れで心配することもないのかも知れないわけである。
私は自分が見聞きする断片的そしてあるいは偏った情報から、世の中が自分が嫌と思うような方向に向かう心配はないかと気になるときがある。自分のいない将来のことだからどうでもいいことかも知れないが、そうなって欲しくないという思いもある。
そして自分の気持ちに引っかかることがあったりしたときに、このホームページに感想や意見を書いたりしているのだが、それが的を射ているのかいないのかはあまり気にしていない。自分がどう感じているかを文章にまとめるトレーニングを兼ねてのたわごとのつもりだが、少しは自分の成長の足しになればと思いつつ続けているわけである。
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