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日大アメリカンフットボール部員の悪質タックル事件を機に、身体と精神に苦痛を与え人間として鍛え成長を促す、すなわちパワハラに耐え抜く人材育成法が礼賛されて来た日本社会の体質が問題視されたりしている。
むかし教科として考えられた体育は上の言うことに文句を言わず勇猛果敢に戦う兵としての資質育成が目的だったということらしい。自分を抑え言われることをやれる人材を育成するために身体と精神に苦痛を与えそれに耐え抜く鍛錬をするということだったようである。それがスポーツの指導においても一部の競技団体に受け継がれ現在に至っているようである。
会社でそういう体質のいわゆる体育会系がある程度歓迎されるのは苦しい社内関係への耐性が強くムリが利くことを期待されてのことらしい。ちょっと仕事がきついと逃げ出してしまうようでは困るというのは分かるが、社内の仕事のさせ方や人間関係の在り方がパワハラに耐え抜く人材であることを期待してあるいは前提にして成立している一面もあるということのようである。
私はかなりのむかしのことだが、船に載せられ沖につれて行かれ泳げないのに海に放り込まれるに似たシゴキや他人には分からないようにするイビリを何回か経験したことがある。身体も精神も軟弱な私だったが無茶な課題を負わされる苦しさを耐え抜いて来たのだが、それは人生を生きて行くためと潰されないよう用心しながら自分流の知恵でやり過ごすことが出来たからである。だからパワハラ人材育成法でいまの自分が育成された一面があることは否定できない。
ただ私が受けたその人材育成法を自分のものにする気は起らず、それをすり抜ける自分流の知恵を自分のものにしてしまった。そして耐える素振りをしながら自分を押し通しそれがバレたら逃げるようなことを繰り返してきた。面従腹背の消極的処世術だが生活を失うよりはまだましという打算でやって来て、そして今はめでたく年金暮らしに至っているというわけである。しかし今もって逆らわず黙って自分を押し通す習い性からなかなか抜け出せないままである。
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No.180 体力的実力小なのに社会的実力大の一面 (2013.08.12)
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