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最近評判になっているTVドラマ「半沢直樹」もこういう視点に通じるところがあると思って見ているが、三浦朱門の「老年の品格」というエッセイ本のなかに「社会的実力と肉体的実力のズレ」というはなしがある。ある仮定の一家の構成人員がもし奴隷市場に出されたら利用価値のもととなる体力などからこういう順番で値段に差はこれこれになるが、現実にはそういう一家ではその順番とは逆に値段の安いほうが偉そうに振舞っていると言ってそのコッケイさについて書いている。
奴隷商人としてそれぞれの労働力などを値踏みすると、60歳の男、その妻で主婦57歳、彼らの32歳の息子とその嫁32歳そして子ども2歳の中で、最高価格は息子の嫁(子ども付きで仮に100)で次は息子(50)、つぎはババア57歳の妻(27.5)、最低はジジイ60歳の男(25)ということである(その理由部分は省略)。ところが現実には奴隷としては一番値段の安いジジイが威張っていて、一番値段の高い嫁が老夫婦に遠慮しながら子どもを育て何かというと老夫婦をもてなしている。彼女より値段の安い息子が嫁の主人面をしている。
これをコッケイと思って、老年になったらそういう社会性にとらわれずそれなりの振る舞いをすることが老年としての品格の一つであろう、と言っているのだと私は本の題名から理解したわけである。また体力的実力のないものが社会的実力を持って威張るシュウトメの嫁いびりなどは悲劇ではなく喜劇というべきとあるが、本当に嫁が体力的実力行使をすればシュウトメはひとたまりもないのだが、嫁の社会性に助けられているということになるわけである。
このはなしは、体力が基本で評価される年代と人間的に成熟する年代にズレがあってひとが社会生活を維持するためにどういう考え方をとって来たかということになるが、結局は蓄積や思索を必要とする知的分野に於ける成熟に重きを置いてきたということになると思われる。ひとはみな老いるから老いた時の生き方を評価しそういう生き方に向かって老いるしかないからである。しかしそれは若い年代がそう思っていてくれているからだということをよく考えて老年を生きなさいということになるわけである。
以上は体力的実力と社会的実力というはなしだが、これを会社などの仕事に置き換えてみれば、若い年代の発想とその能力は体力的実力相当の実力である。実際発想し企画し開発しものに仕上げるのはその体力的実力相当の実力である。そしてその上にいわゆる社会的実力相当の実力者が立っているわけである。体力的実力相当レベルの仕事は出来るか出来ないかはその体力的実力相当の実力にかかっており、特に末端で仕事をするものには顧みて言うことが出来ない苦しさがある。
私のささやかな経験では、ある程度以上になって求められる実力が社会的実力相当の実力に変わると分析力と判断力と勇気があれば相当に楽であるという面があるという感じがある。それも実力の一面かも知れない。しかし中には一番値段が安くなってしまったジジイが威張って手を抜いて楽をしている現実もあるかもしれない。いわゆる偉かったひとが結構長生きすると言われるとそういう人間が長生きしているのかもしれないと思ったりする。そんな印象からほとんど顧みてもの言うほど偉くない末端だった私は社会的実力相当の実力者が持ち上げられてメデイアなどに出ているのを見かけたりすると僻目かと思いつつも体力勝負に苦しんでいる末端がいるからこそ自分がいるのだと分かってその実力を振るっているのかと品定めをしたくなってしまうのである。
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