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  たわごと編: No.377  
  2016.12.04 国事行為は代行で_それでも天皇は天皇  
 
  天皇陛下がご自分の健康の先行きをお考えのなかで天皇と天皇家の今後の在り方について心情を述べられた。私は今回のご発言は天皇家・皇族の存続についての問題提起を含んでいたような気がしている。私は皇位継承体制の安定化が最重要課題だという印象を持っている。その問題を含んでかどうかは分からないが、その後に政府が設けた天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議で、憲法や皇室制度の専門家などのヒアリングが行われているが、ニュースによれば退位容認とか反対とか特例法か皇室典範改定とかというような議論が多いようである。以下、そんなニュースを聞きかじっての私の天皇と公務の在り方に関する感想である。

天皇は世襲の天皇家の存在を前提に日本国民の象徴という憲法上の地位を有しているわけである。地位というからにはその果たすべき責任が前提である。そして天皇陛下はその象徴としてその責任を果たせなくなっても象徴にとどまることは適切でないというお考えから、日本国民の象徴と天皇家当主であることが不可分な天皇という地位を高齢化健康問題などで降りることが可能な地位として国民に認めてほしいと思っておられると思われる。

私は、日本国民の象徴としておよび天皇家当主としての地位は天皇が即位したら亡くなるまで降りてはいけないというふうに思っている方なので、その地位に求められる責任を見直すしかないと思っている。地位はある責任を果たすことを求めて与えられているわけである。象徴としての地位には亡くなるまで果たせる責任だけを求めればよいわけである。それは生きていること以外にないような気がする。国事行為・公務は出来る間は出来ることをする。それでよいわけである。私は、普通のひとはそういう意識を持っていて、天皇がおられるということで十分その責任は果たしておられると思っているのではないかと思っている。

ところで健康問題などで天皇がそれなりの国事行為がこなせない事態の発生は当然予想されることだから憲法に規定されていないはずがない。そういう観点から考えてみるのだが、象徴としての天皇が果たしうる限りにおいて果たすべき責任は天皇の行為・国事行為として憲法に定められており、国事行為臨時代行に対する国事に関する行為を委任して臨時に代行させるあるいは委任解除する勅書交付の行為も国事行為ということのようである。

そうであれば内閣の助言と承認のもとで行われる国事行為として、天皇でありながら象徴としての行為は代行させられるわけである。また負担軽減とかが問題になるいわゆる国民とのふれ合いに係わるご公務というのは国事行為としての儀式であり天皇が主宰する儀式の他、内閣の助言と承認のもとに他人が主宰する儀式への参列なども含まれると私も思っている。そして天皇陛下はそこにこそ象徴としての天皇の存在意義の重さを感じておられ、それが出来ないなら天皇の地位にとどまってはいけないと思っておられるのかも知れない。

もし天皇陛下がそのようにお考えであるとすれば、現実的には憲法でも代行は認められていると思われるいわゆるご公務について代行させることは国事行為ではないとお考えだということになってしまう。あるいは天皇陛下は公務・国事行為の中には代行不可のものがあるとお考えであるということになる。しかし多分そうだと思われるが、天皇である自分がやらねばという使命感から自分の身の処し方の理想を表現したのがあのお言葉であるならば、そのお気持ちは国民に十分伝わっていると私は思っている。

私としては、天皇として生存している限りにおいてその国事行為のほとんどすべては代行可能だという気がしている。ひととして老いていくことを憲法が想定していないわけがないからである。私的行為であれ国事行為であれ出来なくなれば仕方ない。そのときの事情によって内閣は行為を承認しないか誰かに代行してもらうよう助言するしかない。残る問題は内閣の助言と承認のもと代行者を任命する基準や手続きをはっきりさせることのような気がする。そして後継者育成の意味からもほとんどは皇太子殿下に代行委任すれば済むはなしだと思われる。そして私が知らないだけで、多分そういう規定は既にあるのかも知れない。

補足: 
私の思う象徴のイメージ
象徴と言われれば、例えばチームの旗である。一番初めはチーム発足時にチーム旗を決める。その旗のもとに活動をする。努力をし成果を上げるのはチーム員である。そしてチーム員が挫折や苦境を乗り越え成果を挙げるべく努力して来たその活動への誇りをすべてのチーム員が共有するに至ってチーム旗はそのチームの本当の意味での象徴となる。チーム員がそのチームの来し方と現在に誇りを持っているからこそチーム旗は象徴として存在し得るわけである。旗の見た目やはためき方に誇りを感じているわけではない。チーム員がそのチームにあることを誇れるだけのことをして来たあるいはいまもしているから、その象徴であるチーム旗にチーム員は誇りを持つわけである。


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