屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.147 発言のこと H16.06.28)

皇太子殿下の雅子妃殿下に対する人格否定があったとの発言があった後、宮内庁官僚たちを非難する発言や擁護する発言がメディアで飛び交っている。皇太子殿下は、雅子妃殿下が苦境に陥ったときは私が全力で守ると約束したのだから、いま雅子妃殿下が苦境に立った場面では、守る行動を起こさざるを得ない。発言してよかったか悪かったかは別にして、今回の発言に至った事情はそういうことだとは大方の理解するところである。

皇太子殿下発言の内容には宮内庁を批判する意味合いが感じられるため、皇室を守るために良かれと願って誇りと使命感で多大の努力をしている宮内庁官僚たちを私事で非難するのはいかがなものかと批判する人もいるようである。曰く、雅子妃殿下に「外交官と皇太子妃とは違う」と言わず、「皇室外交も同じではありませんか」と求婚された皇太子殿下の言葉に今度の事件の遠因がある。「生涯雅子を守ります」は結構だが、それでなにも反論できない宮内庁官僚たちを悪者にしてしまうのは将来の天皇として如何なものか。

こういう話を見聞きして私は皇太子殿下の発言へ至った思いをやはり汲むべきではないかという感想を持った。宮内庁官僚たちは雅子妃殿下を皇室に迎えるに当たっての約束をないがしろにしたという気がしてならないのである。

皇室外交という言葉をとりあげて皇室は外交をするものではないという批判をするむきもある。言葉をあげつらえばそうだが、皇太子殿下も雅子妃殿下も国際親善活動を通して文化的側面で国に役立ちたいというその思いを、皇族の海外訪問などに対しメディアなどで言われていた「皇室外交」という言葉で表現したものと理解しておいた方が良い。両殿下の意識はそういうものであると私は思っている。

はじめ女性外交官の職のため求婚を固辞された雅子妃殿下が結婚を承諾されるまでには、宮内庁が搦め手から手を回し雅子妃殿下を包囲して承諾する以外にない状況に追い込んでいったことは想像に難くない。プロポーズの言葉で「皇室外交も同じではありませんか」と皇太子殿下が言われたことは、それすなわちプロポーズをバックアップしてきた宮内庁としての約束でもある。その言葉が無かったら今の雅子妃殿下はなかったかもしれない。ご成婚のために周辺も了解した言葉だったと思わずにいられない。皇太子殿下の求婚の言葉は、宮内庁の公約でもある。私はそうとっている。

「生涯雅子を守ります」も御成婚へ向けての公の場で明らかにされた言葉であり、その場を取り仕切る宮内庁も了解した言葉、すなわち宮内庁にとっては公約となった言葉である。皇太子殿下の約束の言葉は皇室として雅子妃殿下を迎え入れるための約束の言葉である。それが果たされないから雅子妃殿下は皇室あるいは宮内庁に裏切られ、皇太子殿下は皇室あるいは宮内庁も約束したものであると信じた、雅子妃殿下が苦境に陥ったときは全力で守るという約束を、一人で果たさなければならないことになったと見ることができるのである。

そんなにも外国訪問がしたかったのか、他所で男児を生んでもらいたい、など報道で見る限りでは、宮内庁官僚の発言には皇室は自分たちの統制のもとにあるべきものとしているかのような印象がある。これだけの露骨なことを公に言う宮内庁官僚が今まで「皇室外交も同じではありませんか」、「生涯雅子を守ります」の言葉になにも否定的なことは言ってこなかった。それは宮内庁官僚の立場を害するものではなかったからである。だから今まで広く国民に知れ渡っているのである。

しかし今になって「皇室外交も同じではありませんか」、「生涯雅子を守ります」の言葉は皇太子殿下の自己責任で宮内庁官僚の知らぬところという論を見聞きすると、その裏に皇太子殿下の発言に端を発して無誤謬性を脅かされ、皇太子殿下の自己責任に問題を転嫁しようとする宮内庁官僚の意向が働いている気がしてならない。

宮内庁官僚は自分たちの意向で多分皇族の自己責任領域を極端に制限してそれを伝統と称してきたのかもしれない。だがいま皇太子殿下の求婚の言葉を自己責任と言うなら、自己責任でやりたいと言われれば宮内庁官僚はバックアップに徹するだけで結果責任は逃れることができる領域があるということを認めたわけである。

宮内庁官僚は自分たちの責任領域の境界を柔軟に運用しているわけである。皇太子殿下妃殿下の自己責任領域も柔軟に運用したらよい。苦しみから守る約束で民間から配偶者を選ぶことが避けられない時代になったわけだから、これから新しい伝統が作られていくと思えばよいだけである。皮肉れば宮内庁官僚がその柔軟性を生かせる場がそこにあるのである。

私、俗な一国民としては皇室の幸せを見られることが天皇制の存在価値の第一である。国民の幸せの象徴である。まずは官僚や政治家はその実現に努力して欲しいし、メディアはそれを願う方向でやってほしい。宮内庁官僚擁護論の中で求婚時発言の自己責任論や今回の発言に対し将来の天皇として如何なものかという批判がまことしやかに流れるのを見ると、それが本来は皇太子殿下をバックアップしなければならない宮内庁官僚の裏工作でなされているような気がして、引っかかるのである。

補足: 廃絶のこと   (H16.08.11)

世間では皇室が廃絶になる可能性についても論じられているが、私は成り行きでよいと思っている。だだ現実に今ある皇室については、日本の幸せの象徴としてその姿を見たいと思っている。


 
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