1973 |
作家の千田夏光という人物が、著書『従軍慰安婦』によりはじめて「従軍慰安婦」という造語を使い、「慰安婦」の頭に「従軍」を冠することで「強制連行」のニュアンスを持たせ、強制連行問題を提起する。 |
1977 |
吉田清治(元陸軍軍人の作家)が、後にフィクションであると認めた『朝鮮人慰安婦と日本人』を刊行。軍の命令により済州島で朝鮮の女性を強制連行して慰安婦にしたと告白する。 |
1983 |
吉田清治が、後にフィクションであると認めた『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』を出版。韓国へ渡り土下座して謝罪するなどのパフォーマンスを敢行する。これが慰安婦問題の発端となる。 |
1989 |
吉田の上記の著作『私の戦争犯罪』が韓国で翻訳されるが、済州島の済州新聞が数年の追跡調査の結果『私の戦争犯罪』は捏造と報じ、吉田が証言したような「強制連行」の事実はなく、「(吉田の著作は)日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物」であると批判する。 |
1991 |
・吉田清治の活動を受け、日本を攻撃する絶好のチャンスであると気付きかけていた韓国側へ、日本から弁護士の福島瑞穂、高木健一らが働きかけ、元慰安婦の金学順が実名を公表し証言する運びとなる。
・そして複数の元慰安婦らが日本政府に謝罪と補償を求め東京地裁に提訴する。金学順は当初、「親にキーセン(売春婦)に売り飛ばされた」と証言し、またこの時はまだ、敗戦により支払われなかった慰安婦としての給与の支払いを要求していただけであった。つまり、「強制連行された」ことについての訴えではなかった。
・だが、朝日新聞(植村記者)はこれを「日本軍に強制連行されたことについての訴え」であると、吉田清治の証言に合わせた内容に(多分意図的に)話をすり替えて誤報報道。
・以後、福島瑞穂は訴状を(嘘だと分かっていながら)「軍に連行された」に書き換える。そして金学順の証言と要求は、朝日新聞の記事のとおり「日本軍に強制連行されたことへの謝罪と賠償」へとすり替えられる。(原告の代表は植村記者の韓国人嫁の母(義母)で「梁順任」は裁判費用搾取(詐欺)で摘発されるも逃走。)
・朝日新聞については誤報報道以後、たびたびこの吉田清治の活動を取り上げ賞賛し、吉田の証言が事実であることを前提にして記事を書くことで国内世論を形成。いわゆる「従軍慰安婦強制連行問題」を大々的に取り上げて政府を非難する。それによりさらに力を得た吉田は、これ以後、世界各地で講演するなど(今となっては「懺悔屋」と呼ばれる商売人として)の懺悔活動を行い、出版物の印税を含め多くの収入を得るようになる。 |
1992 |
日本弁護士連合会が戸塚悦朗弁護士を海外調査特別委員に任命、国連でのロビー活動を行い、当時高額の報酬を得ていた「慰安婦」を「sex
slaves(性奴隷)」と翻訳することにより、国際社会の批判が日本政府へ向くように仕向ける。 |
1993 |
河野洋平官房長官、わずか3ヶ月の元慰安婦への聞き取り調査の後に「河野談話」を発表。「慰安婦の募集人ついては、(中略)官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」として慰安婦の強制性を認め謝罪する。(当時の官房長官がこんな発言をしたので、韓国側は、日本政府が「軍による強制連行」を認めたと主張しロビー活動の勢いを強め、カナダやアメリカなどをはじめとする海外でも日本の悪事が吹聴されることとなり、韓国・ソウルの日本大使館前や、米国・カリフォルニア州グレンデールに慰安婦像が建てられるなどの事態を招いている。) |
1996 |
吉田清治、「本に真実を書いても何の利益もない」と発言、すべての元凶であった過去の著述内容がフィクションであり、自身の「利益」のための捏造であったことを自白する。 |
2007 |
第一次安倍内閣が、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とする答弁書を閣議決定。(一方で、「河野談話」通りであるとも書いてあるので、矛盾が生じている。) |
2014 |
「河野談話」発表当時の内閣官房副長官・石原信雄、国会で「(河野談話発表時の聞き取り調査は)事実関係の裏付け調査は行われていない」と証言。 |
2014 |
日韓両国の検証により、「河野談話」について、日韓両政府が事前に文言をすり合わせていたことなどが明らかとなる。 |
2014 |
朝日新聞は、1980年代〜90年代にかけて報じた慰安婦問題関連記事の捏造や誤報をようやく認め、その一部を訂正する。(ただし、日本の国益を大きく損なったこと、日本国民に与えた著しい不名誉や精神的苦痛に対する謝罪はないままである。) |