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  たわごと編: No.269  
  2015.03.01 中國の言う日本が背負っている歴史の重荷  
 
  2015年2月26日付の人民網日本語版の「日本は歴史の重荷をいつまで背負い続けるのか?」を読んだ。冒頭、「安倍氏が(戦後70年談話に関する)有識者懇談会をかき集めた本当の意図と実際の効果に疑問の声が多く上がっている」と賈秀東・同紙特約論説員が人民日報海外版コラム「望海楼」に掲載した内容の一部らしきものが提示されている。その声は中國が上げているということだと思われる。またそのあとの文章についてはそのコラムの続きなのか最後尾に(編集NA)氏とあるひとが何かを編集した記事なのかよくわからないが、そこでは疑問の声について解説していると思われる。その文中で「日本が背負っている歴史の重荷」という言葉が使われている。以下その歴史の重荷という言葉に関連しての感想である。

歴史の重みということについては記事にドイツの例として挙げている。曰く、「戦後ドイツはファシズムによる侵略の歴史に対して徹底的な否定と反省の姿勢をとった。また、被害者に誠実に謝罪して、歴史の重荷を下ろしたことで、ようやく欧州の和解を実現した」とある。ドイツは「侵略の歴史に対して徹底的な否定と反省の姿勢とり被害者に誠実に謝罪したので歴史の重荷を下ろした」と言っているのだが、中國が日本と平和友好条約を結び放棄した賠償に代わる莫大な経済援助も受けたのは日本が侵略の歴史に対して徹底的な否定と反省の姿勢とり被害者に誠実に謝罪したと認めた結果であって東京裁判の結果受け入れと相俟って歴史の重荷は下ろしたということではないのかと私は最近の中國がする歴史認識非難について違和感を持っている。そして日本は戦後70年近くの新たな日本の歴史を刻んできていまがあると思っている。

私の感覚ではいまの日本の歴史の重荷とは、「中韓が日本の侵略の歴史の問題をつかみ続けて放さなさないこと、中国が歴史問題で日本を批判し日本抑止のカードにしようとしていること」と記事にある表現そのものである。すなわちいまの中國がする歴史認識批判は重荷を下ろさせた歴史をないもののようにして日本が歩んできた新しい歴史に実態のない重荷を負わせようとしていると見えるわけである。記事ではそうでないと言っているが、それこそがいまの状況のように見えるわけである。中韓は日中平和友好条約や日韓基本条約とそれに基づく日本の経済支援や賠償で重荷を下ろしたことにしたその約束の歴史をなかったふりをしようとしているわけである。日本は我慢できる限りは相手の意を汲んで相手を刺激しないように抑制した姿勢でやって来たのにいわれなき相手都合の干渉を受けているわけである。

しかし私の感覚ではいまの日本人の大勢はそういう動きの裏にある中國の意図に鈍感である。日本は中國に狙われている。中國の意図を挫くか将来中國の属国になってもよしとするかという観点から日本のあり方をもっと深刻に考えないといけない。私は中國のいままでのやり方を見ているとその体制と相俟って中國を好きになれない。アメリカも好きではないがいまはアメリカに代表される西欧勢力と連携して中國に対抗していくしかないと思っている。集団的自衛権もその戦略の一環である。私は日本がいまの世界で孤立せずそして国力を消耗せず上手く立ち回りときが過ぎてみたらここに日本ありと誇れる国になってほしい。しかしそういう観点から世界情勢を見たり考えたりする時期をもう逃しているのではないかと気をもんでいる。

補足1: 韓国へ_取捨選択して必要なことだけ記憶した歴史を言わないで
2015.03.03
韓国大統領が未来50年の韓日パートナー関係に対する希望を表明したという3月1日の三一節(独立運動記念日)96周年記念演説でアレクシス・ダデン米コネチカット大教授の歴史は取捨選択して必要なことだけ記憶するのではないという言葉を引用し、未来50年の韓日関係のためには日本が歴史的な事実をありのままに直視して認める姿勢が必須だというようなことを述べたようである。歴史を取捨選択して必要なことだけ記憶してもの言いをしているのは韓国自身でもあるという事実を棚上げして矛盾したことを言っている。同じ言葉をオウム返しで韓国に言ってやりたいものである。

補足2: 中國のものの考え方の間違い
2015.06.05
「習近平の中國(宮本雄二著・新潮社新書)」を読んだ。その中での次の指摘が印象に残った。中國の考え方は「中國の基本的国策は平和と発展であり、世界の平和と発展のために大国としての責任を果たし尽力する。しかし領土や主権、海洋権益といった中國の生存と発展のために必要不可欠なものについては、一切譲歩しない」ということなのだが、その言うところはつまり「自分たちの核心的な権利や利益を侵犯することは決して許さないという姿勢と、世界の平和と発展のために努力することは両立すると考えている」ということである。「中國の権利や権益を守るのは当然であり、侵犯するのは相手が悪いのだから、世界の平和と発展を損なっているのは相手だという理屈に」なっていて、「正しいか正しくないかを自分たちで決めることが出来る」、つまり「世界大国になれば何が正しいかを自分が決めることができると考えているが、それは大間違いである」ということである。

尖閣問題についての見方も私が感じていたとおりで印象に残った。「物理的な力による現状の変更」が行われたかどうかが、議論の鍵である。「石原元都知事の尖閣購入の動きが引き金になったのは事実だ」から日本側に全く責任がないというわけではないが、「これは国内法に基づく所有権の個人から政府への移転であって」、「外国政府が所有権を得たからといって、その土地が外国の領土に変わるものではない」から、「国際法上の尖閣の地位に何の影響も与えるものではない」。「中國は尖閣の国有化を日本が本質的に現状変更した証拠だと騒ぐが」、それは当たらない。「中國の法的執行機関が公船を尖閣の領海に送り込み、物理的な力によって現状を変えようとすることとは本質的に異なる」。「日中関係の現状を力で変えようとしているのは中國であって、日本ではない」ということである。

補足3: 中国は歴史の結果であるいまを受け入れるのか
2015.06.29
27日のことらしい。北京で開催された世界平和フォーラムの講演で中国の王毅外相が「発展した隣国を日本は受け入れるか」と問うたということである。私は王毅という人物は駐日大使時分からその発言の仕方や振る舞いが日本を小馬鹿にしているようなところがあって好きでない。アメリカは内心がどうか知らないが歴史については、いまの状態を歴史の結果としてそれを認めて過去をあげつらうことはしないが、歴史の結果であるいまを認め未来を考えるのではなく過去の歴史の解釈にこだわってそれを歴史の結果であるいまを変える手段にしている中国と韓国の手前勝手の言い分とやり方には辟易するところがある。

答えは決まっている。中国は国際法概念が薄く発展した国とはいえないし、周辺国属国化を目指すむかしの体制に逆戻りしつつあるし、共産主義の軛からも開放されていない。発展は腕力が強くなってみかけは大人の国になったのだがその振る舞いに危うげな面を残しているのだから難しいということだと思われる。中国の政治体制では外相には権力はないというはなしだから、王毅外相も中枢の代弁者である。そしてその発言の恫喝的ともとれる表現は王毅外相の表現法かも知れないが、そこに強圧的に相手を変えようとする自己中心的態度の中国の姿勢は現れていると思われる。

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