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ある有名人のブログに、偏差値を云々するのはいたずらにチンコ(伏字だが多分これ)の大きさを気にするようなものでそれに女が男としての魅力を感じるものではないのと同様、実際はそれで世の中で成功がきまるものではない、偏差値など糞食らえだ、止めてしまえというような記事があった。
世の中、ひとを峻別するのにやたら資格やら基準をつくり価値有りげにPRしたり権威をもたせ、それで金儲けをしたりひとの可能性を潰して使いやすく飼いならす道具に利用している印象がある。私も受けさせられたことがあるが、ある人材紹介や教育で有名な会社の適正検査や英語能力テスト、あるいは社内の教育プログラムでの評定など自分の担当する仕事の能力に関係ない気がしたものである。プロモーションのための資格試験みたいにやっているという印象が強かった。
仕事の場で同じ土俵でやっていれば自ずと能力の差は分かる。それを正しく評価するかどうかはそれを見ている上司の良し悪しによる。私が中途入社で部内で下っ端として扱われていたころの経験だが、部外や社外での共同プロジェクトに参画していた時のこと、部外者が私を評価してくれそれを私の上司に漏らしたら、それは意外だとその上司が私に言ったことがある。部内では下っ端は下っ端の能力として扱われる。同じことをやっている人間は能力で負けると思っているが、それがプロモーションにつながらないこともあるのである。長い会社生活の間には私が評定する場にもいたこともあるが、大方はその部署トップの感覚で決められてしまう印象を持ったものである。
私には適性検査や評定あるいはその運用に不信感がある。その結果で人格を否定されたように感じたことがあるからである。お前はダメなやつだ、そういう看板を背負わされたような扱い方をされたことがあるからである。だから私は与えられた場で誰にも負けない成果を挙げることに集中してきたが、自分より仕事ができないあるいはやらない人間が次の場を与えられることがあるのである。その場その場で仕事のやり方は異なるわけだが、その場で成果があれば次の場でも成果が期待できる可能性が高い。しかしその場で集中していると他のことは出来ないと評価されるわけである。一つ上の立場で仕事をせよという美辞に隠れてその場の仕事の成果追求をおろそかにする方が評価されることもあるのである。
私は評価する側の評価基準それを作ったひとや評価側のひとをあまり信頼していない。どちらかと言うと会社生活や団体生活での評価にそぐわない生き方をする人間側のような意識が強い私には、チンコの大きさ比べでお前はダメだと言うシステムを作ってそれぞれ個性のある人間が世の中でそれなりに生きることを息苦しくしている印象があるからである。私のそういう見方は自分の能力の無さを棚上げしてのことだが、ひとは他人が見るよりは自分をいっちょまえだと思う傾向があるということ前提で読み流してくれればよい。私には多分自分はダメなやつであるという思いがないではないが、言ってみたいのである。
補足: やはり大きいほうが良いという研究結果のニュース
2013.06.24
男性器の大きさは女性にとって重要なのかどうか、という永遠の問題の調査・研究に取り組んだ国際科学者チームが6月8日、その結果を米科学アカデミー紀要に発表した。出した答えは「イエス、女性は大きい男性ほど魅力的に感じる」だったそうである。
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屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編:
No.137 学歴詐称のこと [2004(H16).02.09]
-->付録: 資格のこと
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