屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
                     Home > 目次_top  >  記事

No.137 学歴詐称のこと H16.02.09)

民主党の古賀衆議院議員が先の選挙に当たって公表していた学歴の詐称疑惑がマスコミで取沙汰され、本人がアメリカの大学まで調べに行ったが単位が不足で卒業していないことが明確になった。その結果民主党除籍ということになったが、議員辞職はしないようである。その間言うことが二転三転、ウソを糊塗するのを見ていると、交通事故を起こしても逃げるタイプで、過ちを犯したときの責任の取り方を知らない人間という印象は否めなかった。

日本国民であることと年齢以外たいして立候補の資格を問われない国会議員選挙でも、候補者の現在の姿になじみがないと選挙民は経歴を見てその人への判断の基礎にすることが多い。そこで候補者は自分の権威や信頼性を印象付けるために、経歴を誇る必要に迫られる。

仕事などの社会的活動の経歴や実績は政治能力に反映されると思われるから、それらをPRし政治的抱負をうったえるのは当然の成り行きである。だが学歴については政治能力にあまり関係ない。だからか政治家には学歴要件はないのだと思われる。

学歴要件のある仕事でも、学校をでたからと言って実務能力があるとは限らない。資格試験を通っても実務が出来ないことは多いのである。医師免許をとっても研修医として実務をつまなければ医療はその人のものにならない。司法試験に通っても研修しなければならない。特に資格の要らない政治家は学歴という資格よりも社会的活動の経験実績に裏打ちされてこそ政治への情熱を現実化できるのではないかと思われる。

もともと誰も学歴で政治が出来ると思っていないのだから、学歴詐称に目くじらを立てることはないと言う見方も出来る。今回多分学歴で投票した人は少なく、山崎拓氏の対抗馬としての人気に煽られたと思われる。大体そんなものである。学歴詐称が事件となるのはそれが発覚した時の本人や政党の誠実性を疑わせる対応のためである。ウソを押し通そうとしたり庇おうとするから、胡散臭く見えてどんどん突っつかれるのである。本当の政治家はウソを押し通す塊のようなものだが、義のないウソはつかぬものと思わせなければいけないのである。それが政治家商売である。

学歴とは商品の価格表示ラベルのようなものである。大体はそれなりの値段がついている。だが中には高くても賞味期限が切れていたり、実は安いのに何倍もの高値がついているものもある。反対に安くても物がよいものも沢山ある。自分で価値を見極める目があれば値段でものの良し悪しを判断しなくてすむ。

しかし滅多にお目にかからない高価なダイヤなどの類は一般の人にはそうそう見極められるとは言い難い。聞くところによればダイヤは一億円以上にかぎるらしい。それ以下のものはいざというとき売ろうとすると買い値の十分の一くらいでしか売れないと言う。値段に見合った価値のダイヤはその辺にやたらとあるわけではない。ちょっと目に触れる小高いものは価値有りそうに10倍もの高い値をつけたものということになる。

一般に学歴を誇るのは自分を10倍値段のダイヤよろしく売り込むためである。学歴を詐称するのはそれの最たるものである。自分で価値を見分けられず、高値がついていれば価値あると思って買う人間がいるから、それを期待して高値でつるのである。小沢一郎氏は価値はあるのだがちょっと高めに値段をつけすぎて騒ぎになったというようなことを言っていたが、疑惑発生後の対応から見て古賀議員は10倍値段のダイヤでいこうと思ってやった、安くても価値あると言うには自分に自信がなかったのだと、私は見ている。

そんなに鑑定眼はないのに高い骨董品を買って後で安物だと言われること、TVの「なんでも鑑定団」でよく見るところである。売った骨董屋がいんちきなのか、売った骨董屋も買った素人も目が利かないのか定かではないが、安物が高値で出まわったりするのが骨董商売のようである。まともな骨董屋や素人が失敗しないためには勉強して目利きになるしかない。野村サッチー騒動や今回の古賀騒動を見れば安物を高値で仕入れる政党、怪しげな価値のものでも人気を煽るメディア、それを信じて買う選挙民、それぞれ目利きの失敗になかなか懲りないらしい。


付録: 資格のこと (H16.02.09)

「No.137学歴詐称のこと(H16.02.09)」は資格社会の負の面の発露でもある。以下資格資格の社会はいやだと思う私の資格についての感想である。

雇用事情が悪くなってから、資格取得がブームのようである。有利な就職のためあるいは新分野に職を求めたいということらしいが、資格を得たからといっておいそれとよい仕事が見つかるわけではない。既にそういう職場で実務経験のあるものが資格を取得してしまえば、そのほうが仕事は信頼できる。ポジションが残っていることはそうそう無いと思われる。

特に高度な資格はそれなりに重い責任がついて回るから、大変な努力で高度な資格を取っても、実務経験がなければポジションは見つかりにくい。高度な資格を独学で取って会社に入っても現場で人材育成をする余裕のなくなった職場などでは歓迎されにくいからである。また一方では、以前カリスマ美容師が理容師の免許を持っていないで問題になったことがあったように、資格の有無よりその腕を世間が評価するような分野も実際にはある。

資格の高度であるや否やを問わず実際仕事につこうとすれば、資格を持っていても実務スキルが低ければ実用価値が認められにくいということである。職を失ったりして望む待遇の職を得られないからといって、何か勉強して資格を取れば道が開けるということは考えにくい。まずは実務経験を積むために取りたい資格に関連した仕事に食らいつくしかない。そうすれば資格を取ったら待遇があがるかもしれない。

そもそもなぜ資格というものが出来たのか。私の考えるところ、すぐれた人間が危険性もあるが世の中に役に立つことやものを作り出した。しかし、間違えば人や世の中を危険にさらす恐れがある。そこで、すぐれた人間の想定したとおりの取り扱いや振る舞いを出来るものにしかそのものごとを扱えないようにするためである。つまり安全に仕事をするためのものである。いわゆる資格はその取得者が当該の仕事の基準を一応きちんと守ることができるものであるという証明である。

こういう見方で見てみれば、世の中の新しいことを開拓する仕事に資格の有無を問うことはあまり意味がない。資格を取りその資格で定めた仕事をするわけではないから、開拓しようとする新たな仕事を着想し展開する能力のほうが大切である。こう言うと資格を軽視しているのではないかと言われるかもしれない。着想の実現には手段として資格で規制されている作業をする必要がある場合もある。その資格取得の要件は新たな事柄を実現するための広範な知識や経験でもありうる。だから資格を真っ向から否定するものではない。

ただ資格で管理することもないようなものにまで資格を設定したりするような、なんでも資格資格の社会は嫌いであるということである。閉ざされた世界の価値観に閉じ込められるような気がして、私は資格ブームに批判的である。資格ブームは自分から打って出るより、人の定めた枠の中でなんとか人よりましに食っていきたい人間ばかりになってしまった証なのかと、能力もないのに日本の先行きが心配になっていたのである。

しかし昨今若い社会人のなかに就職に有利だからという理由ではなく資格を取得しようとする人が出て来ているそうである。そういう人は、複数の資格取得のため勉強しているらしい。新たに何かしようという自分なりの目標実現のステップとしてその資格の裏付けとなる知識や経験が必要だと考えているのではないかと見られている。そうならば資格を取ったあとで自分の実力や熱意を試そうという若い人がいるということである。資格ブームのなかにも評価できる一面があるということになる。

補足: 資格なんか (H16.02.14)

(アイランド・ホッパーさんから上記「資格のこと」に関連して、当時掲示板に投稿いただいた内容を転載いたします。  (H16.08.11転載)

昔は家柄、次に学歴社会、これからは人柄でと斉藤茂吉さんかの著書に出ています。

資格についての考え方等おっしゃる通り御もっともだと思います。

中央の役人が役所の先に協会等を作って資格制度を導入して、天下り先の運営資金にしたのが始まりであって、それに新聞、雑誌などのメデアがのっかっているだけの事と思います。

上場企業の中でも毎年毎年好決算を出している処などは資格保持など役所が義務付けている分野(消防法とか危険を伴うボイラー、冷凍など)以外は余り進級に影響させていません。

それより日本沈没を救うには人でしょう。人事課に人の力を見抜く人物を置いている企業は勝ち組になつていますよ。


 
 Home   back