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  たわごと編: No.123  
  2012.09.17 ミステリードラマから思う正義みたいなもの  
 
  私はCS放送を視聴しているが、見るのはほとんどが英米のミステリードラマである。その中でよく聞くのは正義という言葉である。英語でJusticeだが字幕では正義と出る。辞書を見ると正義・Justiceとは社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持することとある。私などは正義を人の踏み行う正しい道筋のことという絶対的な概念があるという感覚で生きてきたが、英米のミステリードラマに見る正義はそれとはいささか違って人それぞれの異なる正しいという思いを調整し互いに納得がいくように決着したあるいはしようとしているものという感じがしている。

言葉遊びをすると正義は名詞的には正しい義ということになる。私はそこで正しい義というところに引っかかる。正しい義と言うからには正しくない義もあるような気になるのである。ドラマでは英語で正義をJusticeと言うが、それは裁判で証拠と検事と弁護人の弁論を見聞きして陪審員がまあこのあたりかと評決した結果でもあって、まさにある社会の枠組みのなかでの求められる公正さとはこういうものかという印象がある。

そういう感じを持ったので、正義を動詞的にとってみればそういう意味合いにもなるかと思い次の言葉遊びである。動詞的にとると正義は義を正すということになる。義と言えるかどうか正すということであれば義というのは絶対的に正しいものということになるが、義が正しいか否かを正すということであれば、誰かが主張する義には良し悪しあるいは正しさの判別を要する曖昧さがあるということになる。多分英語で言う正義・Justiceとは義の曖昧さにある社会がその枠組の中で決着を付けた結果ということになる。

以上ドラマの感想だが、以下それからの連想である。他人と話していて意見が合わないことがある。大げさに言えばどちらも正義を主張して譲らないということになる。個人的に意見が合わないケースは多分にそれぞれの生き方を含めた感情的な要素が強い。それを互いにそれを理解しあってちょうどよい決着を求めればそれが上記にいう正義・Justiceみたいなものになる。それには話し合いが必要になる。

ところがはなしをしていくうちに、話し合おうと言いながら自分の言い分だけを押し通そうとして感情的になり、怒ったり怒鳴り散らしたり泣きわめいたりして話し合いにならなず後味の悪い思いをしたりすることがある。自分の感情・色眼鏡を捨ててもとにある事実を共有理解した上で話し合わないと互いに納得する決着に到達しないのにである。

あるドラマでFBIオフィスの入り口広間のフロアにJUSTICE for ALLと描かれているのが映ったが、裁判みたいなものになじまない二人ALLにはちょうどよい正義・Justiceを得させる何が必要なのかなと思ったものである。人それぞれの思いは挫折や悲しみその他の体験の有無あるいは程度でかなり異なる。事実を共有理解する気が起きるのもその思いにかかっている。互いにそういう気になるには相当の修行が必要であると思われる。必要なのは時間以外ないのかもしれない。私は今のところ沈黙し離れて見ているのがよいかなという感じである。

補足: 個人的な主張の相違に似た印象
2012.09.18
国家間の主張、例えば日韓・日中の領土に関することや国内のなんとか反対運動なども上記の個人的な主張の相違に似た印象がある。国家間ではどちらも引かないし、反対運動については反対する方が自分たちの主張を受け入れられない限りやめないように見える。せめて国内のことについては反対のための反対でなく事実を共有理解し賛否双方の折り合いで決着してほしいものである。反対する自由があるということはそういうことではないかと思われる。


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