My logbook : 屋久島方丈記 
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  たわごと編: No.95  
  2012.03.19 働かない20%のアリのような気がする  
 
  TVの対談番組である学者が紹介したはなしである。どこかの学者が働き者と言われているアリを観察したところ全体の20%はうろちょろ動いてはいるが仕事をしていないことが分かったそうである。そこでその仕事をしていないアリを取り除き数を減らしてみると全体として数が減ったその20%がまた仕事をしていないアリになるということである。常に20%の遊びを持つようになっているのだそうである。働いているアリを減らしてもその20%は維持されるらしい。

それを聞いていた妻が、自分はアリで言う20%みたいな人間のような気がすると言った。私も自分はそうだという気がする。いま私は社会あるいは社会を維持するために何かしているかと問われれば、ただ生きているだけで何もしていない気がしているからである。また仕事に就いていたころを考えても、そうと意識できるようなことをしていたような気がしない。だから20%の人間ではないかという気になってしまうのである。妻は毎週一回ある行事に参加しているのだが、そこで会う4~5人と話をしていたらそのはなしはとうに知っていて、自分も20%のアリのようだと思っていると言う人がほとんどだったそうである。

遊びと言えば例えば野球やサッカーなどのスポーツ、囲碁や将棋などのゲーム、読書や音楽など私にとってはいわゆる遊びの範疇の遊びを思いつくが、それをいわゆる仕事としている人もいる。いわゆる遊びをいわゆる仕事にしている人たちはまた何か他のことをいわゆる遊びとしていると思われる。そういういわゆる遊びはとらえどころがあるが、人が生きていく中での意義ある遊びということになれば、人がそれと意識しているいないはどうであれ物理的、精神的、時間的な隙間・余裕とそのもたらすものということになると思われる。一見無駄とも思えるそういうものがないと人やその社会が壊れたりうまくいかなかったり消えてしまうわけである。

世の中を見ているとよく働く人もいればそうでない人もいる。そして創造的仕事をする人について多い話題だが、生活の中に遊びがないと良い成果は出ないというはなしをよく聞くことがある。遊びは個々人に均一に分布していないし、遊びの役割も感じられるものとそうでないものがあるようである。私は漠然と人それぞれや社会に遊びは必要だと思っているが、自分のどれが遊びでその寄与度がどうだということは分からない。寄与していると感じたり寄与しようと考えたりすることなくただ生きてきたわけである。

自分が人間の中の遊びのような感じがするのは、そういう感覚の中で生きて来て何か人や社会に意義あることをしたという意識が希薄だからかも知れない。あるいは自覚はしていないもののそれなりの役割は果たして来ているのだが、いわゆる仕事や子育てで比較的頭を使うことが少なくなってきたいまの時期、暇ばかりが強く意識されてしまうからかも知れない。私や妻、そして妻がアリのはなしをした同年代のほとんどの人が自分もアリの20%みたいかもと言うはなしは、いままでそれなりに何ごとかをなしてきたのだがそれとは知らず年をとっていまに至った、そういう自分たちのいままでとそしてまたいまの暇な境遇が言わしめているように思える。ただし私と妻以外の人については、自分は働き者だったあるいは働き者であるとの反語的表現として妻のはなしに合わせたのかも知れない。


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