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最近どこかの新興宗教らしきところのビラが入った。私はビラが知らぬうちにポストに入るくらいはなんとも思わないが、訪問などの布教活動みたいなことに巻き込まれるのは好きでない。私はいわゆる宗教に帰依していないが、当家ではむかしからある宗派のお寺にお世話になってきたらしいので儀式としてはそれを踏襲している。教義については全く知らないが、本などで見る一般的知識としての仏の性質などには教えられるものがある。そういうものに影響されて自分なりに生き方についての考えはあるが、宗教に関する自分の感覚としては無宗教である。
日本人が無宗教と言うとき、人智を超える何かを認めないわけではないが一神教的な神を信じるようなのと違って曖昧な感じ方だからそう言っているということである。文藝春秋5月号で宗教に関する池上彰氏との対談で養老孟司氏がそう言っているが、私の感覚もそうで漠然と何かはあると思っている。そしてそのなにかありそうだと思う気持ちから発する思考で自分で悩ましいものごとを解釈して納得する。むかしからの日本の曖昧な信心感覚の中で育ってきた私はその何かを神様仏様と言っていると思っている。そして人それぞれが言う神様仏様のイメージは百人百様であると思っている。
私はむかしから練り上げられてきた宗教的思想には関心がある。しかし他人が薦める神様仏様の教えだとか誰か教祖が言う教えにはあまり興味がない。自分が納得する解釈をしていればその必要はない。例えれば自分の解釈そのものが教えみたいなものであり、そう解釈している自分が自分教の教祖みたいなものである。こういう解釈は人それぞれである。だから他人からこういう教えがあると言われてもそれはそれで結構という姿勢で否定することはしない。しかし教えの売り込みには忌避感を持っている。不安なので何かにすがっている人が平穏に暮らしている人を誘うというところに胡散臭さを感じている。自分の不安に他人を巻き込み先人として振舞うことで相対的安心を得ようとしているような感じがするからである。
自分の解釈が優れていると誇るわけではない。多分他愛もないことで私は納得していると思われる。私はそれで平穏に暮らしているのである。その平穏な暮らしを邪魔してもらいたくない。私はいろいろな影響を受けて独自色に欠けているとしても他人に介入されず自分流に自分だけを支配していればそれで満足である。他人もそれぞれ自分の意志で選んだ教えで同様にやってくれればよい。なぜなら自分や仲間以外の考えの人たちを支配しようとたり排除したりしようとしない限りあまり世の中の迷惑にはならなそうだし、彼らや彼らの言う教えで私の平穏な生活が邪魔されることはないと思うからである。
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屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編:
No.98 屋久島(54):奉仕活動のこと [2002(H14).07.15]
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