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  日誌編 (with photo) ・ 偏見ご免のたわごと編  
  たわごと編: No.8  
  2010.07.12  悩ましい強攻策  
 
  何とか市の市長のやり方についてのたわごとである。私はその市長の改革すべきという思いについてはまともなことだと思っている。多分世間一般でもその思いに限ればそう思われていると思われる。しかしその思いは体勢擁護派多勢の議会では通らない。職員も既得権擁護勢力が牛耳って役所内の改革も難渋する。市長を取り巻く状況がそうだとすると、改革を訴えて住民から選ばれた市長が改革を進められない。悩ましいことである。

その対策として市長が採った作戦が、断固とした人事権の行使、強硬な決裁と議会スルーの専決処分の多発で、これがいま独裁的と批判を受けているようである。そういう作戦を採る理屈として自分の正しさを阻む法は正しい法ではないというようなこと言っているようである。しかし市長の思うことが絶対正しいと押し通せば、自分が正しい法であるということになる。それはどこかの神の言い分である。市長のなかでその言い分の実行自体が目的化していないか気にかかる。

私は合法的な範囲では強引であっても許されると思っているが、自分の正しさを阻むいわゆる法は正しい法ではないと言うことには無理があると思っている。市長の絶対に正しいという思いだけではものを決められない。市長も議員も選挙で選ばれた住民の代表であるが、住民の市長を選ぶ基準と議員を選ぶ基準は同じではない。現在の状況もその産物である。住民それぞれの利害に基づいた意志の総合化された結果である。いくら相手を愛していてもその家族の仕事を非難ばかりしながら自分の愛を受け入れろと言えば相手は躊躇する。愛を受け入れるかどうかは相手が決めることだから、多分自分の思い通りにならない。

市長が正しいと思うことを実行するには議会が支持派多勢になることが必要である。住民を意識変革して議員選挙であるいは議員の説得で議会の支持勢力を多数派にすることが必要である。いくら努力してもそれがかなわぬときは、改革を標榜する市長への大方の住民の期待はぼちぼちの改革だということになる。改革はしてほしいが利害関係者としての大方の住民はいまの利益も守りたいということである。

それは住民の生活を守るためにと改革を唱える市長ほどには、市破綻に対する住民の意識が高くないからかもしれない。市長は自分が正しいと思うならば、その思いをいわゆる合法的に貫くしかない。しかしいくら努力しても支持状況に変化がないとなれば、市長と住民の思惑の差が明白になって来る。いくら愛していてもお別れしましょうということになる。そのうち市長の再選も危うくなるかもしれない。

そしてその後のぼちぼち改革で市は持ち直すかもしれない。しかし、もし市長を改革に駆り立てた見通しが当たっていれば、市はいずれ破綻する。そのとき市長が主張した改革よりも厳しい破綻処理が待っている。住民の負担も市長が改革を唱えていたときより大きくなる。議員も人数、報酬ともに大幅に削減される、体質も新陳代謝が行われる。職員も同様である。そして市も寂れると思われる。その中から新しいやり方が産まれる。破綻こそが、合法的革命手段である。市長はそのときに備え新しい芽をだす種を蒔いておけばと、私は思うのである。あるいは今の強攻策で蒔いているつもりなのかもしれない。

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