屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.271 幸せを感じるときのこと    (H20.06.09)

ある時、若い女性からあなたの楽しみは何ですかと聞かれたことがある。私はそのときどきのちょっとしたことを面白がったり楽しく思うことはあってもこれは楽しみと強く意識する特定のものがないので返答に困って、犬と過ごす今の生活と答えた記憶がある。

これに似た質問で、幸せを感じるのはどんなときですかというのもある。これも返答に困る。私は何が幸せと意識して暮らしているわけでもなく、これが幸せだと感じる感覚も発達していないみたいなのである。しかしもしかしたら幸せを感じるときとは楽しかったりとか面白かったりとか嬉しかったりしたときの感じなのかも知れない。そういう意味では確かに私は今までに幸せを感じたときはある。

竹内まりやの「人生の扉」の歌詞にある。20にして「Fun」、30にして「Great」、40にして「Lovely」、50にして「Nice」。60にして「Fine」、70にして「Alright」、80にして「Good」。そして「It‘s worth livinng」と。例えばそう感じるその気持ちが幸せということで、そう感じるときが多分幸せを感じるときなのかも知れない。私もなにかそのときどきの年代で自分にしっくりくる気持ちには変化があった気がする。そしてそのしっくりした気持ちを感じていたとき私は多分幸せだったのだと思われる。

今私は60代の後半だが、そういう気持ちを感じられる今のような自分でいられるのは私が正気でいられる間である。そしてその正気の最後のときに「It‘s worth living」な気持ちならば私の人生は幸せだったことになる。だから多分人生が幸せだったか不幸だったか決まるのは正気な状態でいる最後のときということになるが、その正気でいる最後のときを今だと多分そのときの私は知ることができない。

となれば、自分の人生が幸せだったかどうかは、これからのその日その日今日までの人生がよいものだったと感じて過ごせなければはっきりしないことになる。人生幸か不幸かを問うことに意味があるかないかは分からないが、多分自分が知ることのない正気でなくなる時点まで幸せな気持ちで暮らせれば人生幸せであると思われる。そういう意味で老後は大事である。あとがないのだから毎日自分の気持ちにしっくりくるよい日にするように暮らさなければならない気にはなる。

以上、竹内まりやの「人生の扉」という歌を聴いての感想文である。妻がよい歌だというはなしを友人から聞いてCDを購入した。それを私も聴いてのことである。

補足1: 自然に開くこと  (H20.06.24)

竹内まりやの「人生の扉」にある「人生の扉を開けては感じるその重さ」の「その」は「人生の」なのか「扉の」なのかと気になる。扉の重さということなら、私はそういう感じを持っていない。運良く生きていれば誰にでも自然に人生の扉は開く。新たな日々はやってくる。重さがあるとすれば扉を通って行く自分の過去である。その重い軽いは別にして人は過去を感傷的に振り返る。そして新たな日々を最期まで良い日にしたいと願うこと誰でも変わらない。歌はそこを突いているから受けるのだと思われる。

補足2: 妻の反応のこと  (H21.09.14)

下記リンクのページと本ページの本文を見た妻に、私がどういうことに幸せを感じているのか見えにくいと言われた。私は自分が幸せかどうか気にする人は幸せではない、だから私は幸せに暮らしている。毎日そんなことは意識せず楽しい日、良い日と生活しているなかに幸せはあると返答した。しかし妻に一緒に暮らして幸せであると表現して来なかったのではないかと反省するところもある。

No.319 屋久島(164):高齢者生きがい対策のこと  (H21.09.14)


 
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