屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.201 偉く見せること(1)  H18.02.27)

2月13日配信されたあるメールマガジンのなかに『イチロー氏、柔道家・山下氏から学ぶ、世界で戦う5カ条』というコラムがあった。二人へのインタビューでのやり取りから筆者が読み取ったものだということである。

そのなかで私の興味を引いた部分は『企業人は「肩書」に気を取られがちと指摘』というところである。『イチロー選手と山下教授はともに「ビジネスのことは詳しくない」と断りながらも、企業人が「偉さ」に敏感な点を指摘していた』というところである。

それに関連する二人の具体的発言が次のように紹介されている。『イチロー選手は「社会に出ると自分を大きく見せようとする人が多い。しかし、その中に本当に大きい人はいない。」と語る。』 また 『「ふさわしさ」を重視する山下教授も肩書ばかりを追い求める姿勢を嘆いた。』とある。
(注: 「ふさわしさ」とは山下教授の『勝者にふさわしい振る舞いがなければ勝つだけでは意味がない。結果ばかりを追い求めると、道の神髄に欠けてしまうこともある。過程を重視して「ふさわしい言動」にも注意することが成長の糧となる。』という発言を受けている。)

そして筆者は二人の発言の趣旨を『どんな相手に対しても肩書ではなく、自分の心を見せて、誠実に接しようということだろう』と解釈し、『組織にいるとその立場を優先しがちだが、時には視線を変えることも大切だ。』とコメントしている。

以上が記事の紹介だが、私が思うに「肩書」に関係なく誠実にとは、功成り名を遂げた人が言うことである。あるいはいわゆる偉い人が言うことである。偉くない人間がそんなことを言えば、負け惜しみととられるのが落ちである。以下筆者のコメントに対する私の負け惜しみみたいな感想である。

筆者の言う「立場を優先し」ているのはいわゆる偉い人間で、筆者はそのいわゆる偉い人間のある読者層を想定して語りかけているように見える。しかし筆者もそのいわゆる偉い人間の仲間だから、仲間内でいわゆる偉くない人間に情けをかけようやと言っているみたいなことになっている。

偉い肩書きを持った人が、自分の心を見せて誠実に接することが大切と言うのは正論だが、自分より偉い人にそういう説教が出来る勇気のある人はあまりいないと思われる。また偉さに敏感な低い立場の人間にそういうやり方で接してもただ弱さを見せていると侮られる。トップが強制でもしない限り風土は変わらない。

ここで思い出すのは、ノーベル賞の田中さんである。受賞が決まった時点では主任という肩書きだった。いわゆる会社の昇進という面から見ればその年齢では恵まれた立場ではなかったようである。技術一本やりで昇進試験も敬遠していたと伝えられたが、その肩書きの低い田中さんが会社の上役やいわゆる出世をした入社同期や後輩あるいは同窓の同期生からどう思われていたかあるいは扱われていたのか、気になる。

ノーベル賞受賞という肩書きを得て、社内で高い待遇を与えられるようになり社外でもいろいろな組織に要請され役職についた。ノーベル賞を受賞しなければそれまで社内や仲間内ではいわゆる出世の遅い人間として、興味の埒外に置かれ取り残されたままだったのではないか。田中さんはノーベル賞を受賞しようがしまいが人となりや業績に変化はないのにである。いくらいわゆる偉い人が仲間内でその振る舞いについて心構えを話し合っても、田中さんの肩書きのない「偉さ」に敏感なままだったのではないかと、田中さんのことを思い出すのである。

No.202 偉く見せること(2)  (H18.03.13)


 
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