My logbook : 屋久島生活の断片
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HP作成雑感


高村薫があるコラムで個人HPは多分に自分の日記帳の中に留めておいたほうが良いインターネットのクズであるという意味のことを言っている。それは自覚している。底の浅い人間が一人前のような顔をして評価に耐えないクズを生産している。しかしそのクズは一人の人間が作られる過程でできた自身の切削クズである。もとの人間と同素材である。だからスターダストの一片のように夜空にひそやかに輝くクズだとどれか一つでも見てくれる人がいればうれしい。そう思いながらHPを作成している。
 

2.本音と建前云々のこと (H12.10.15)

最近私がこのHPをやっていることを知っている顔見知りの人達から自己紹介文の本音と建前云々のことにからめて私を本音まるだし人間のように思っているようなことをよく言われる。一応そのことはHPを始めるにあたっての建前の一面を持っていることをお断りしておく。実物はもっと複雑な人間だと思っていただいたほうが良いかと思う。
 

3.邪悪な人のこと (H12.10.20)

「虚偽と邪悪の心理学・平気でうそをつく人たち(ペック著・草思社刊)」という本のカバー折り返しにこう書いてある。

邪悪な人とは、こんな人である----
・どんな町にでも住んでいる、ごく普通の人。
・自分には欠点がないと思い込んでいる。
・異常に意思が強い。
・罪悪感や自責の念に耐えることを絶対的に拒否する。
・他者をスケープゴートにして、責任を転嫁する。
・体面や世間体のためには人並み以上に努力する。
・他人に善人だと思われることを強く望む。

このような人は巧妙に責任転嫁をしたり隠微なうそをつくらしい。私も今までの人生でそういう面があったと反省するところがないわけではない。また一方ではなんとなくおかしい、ひっかかると感じながらも異論を唱えられず不快感を今に残していることもある。HPでは私なりにこれも邪悪性の発露かと感じたことも載せてみたい、これが自己紹介文で本音と建前云々から攻撃的になる云々に至る段落を書いた所以である。
 

4.コンテンツのこと (H12.12.01)

HP作成ソフトの解説書を見ていたらコラムにコンテンツについての考え方が載っていた。その原文と表現は異なるが私の受け取った意味合いは次のようなことである。コンテンツは文章が命である。芸術作品としての絵や写真は別として文章のともなわない絵や写真だけでは送り手の思いが伝わらない。だからまず文章をきちんと練ることがHP作成には大切である。

私は文章だけでいければと思う。でもなんとなくさびしい気がする。人が見てくれないのではとも思う。だから写真入を止められない。そして写真が入れられるテーマがないかと苦労することがある。
 

5.心の内部のこと (H13.01.09)

心という言葉は難しいから私はなるべく避けている。しかし今回は引例として使う。村上龍+坂本龍一の「EV.Cafe」という本で、心の内部なんてない、そう言っているものは全て発した言葉にあると言っていたように記憶している。

一方、人を言うことによって判断するな、その為すところを見て判断せよということもよく言われている。

私のHP記事は事実の断片とそれらを繋ぎ合せるときについたりする嘘によって構成された言葉である。それで自分の真実を言っていると思っている。しかしHP記事は行為による検証の出来ない言葉である。だから私は自己紹介で自分は評論家のようなものと言っている。
 

6.文化的なこと (H13.10.01)

五味太郎の「ここまできてわかったこと」(講談社刊)の27番目に [ 文化の基本は「暇つぶし」というところがあるから、高速、高能率はあまり文化的でないということ。 ] というのがある。

そういう意味ではインタネットの世界やそれを利用する自分はあまり文化的でないということになる。一方私のように暇つぶしにインタネットを利用したりHPを作成したりして楽しむことはまさに文化的なことということにもなる。まあ私は文化的生活をおくっているということになるかもしれない。
 

7.知的アウトプットのこと (H14.02.07)

立花隆が講師をしていたある大学の教養学部の「調べて書く」というゼミでいろんな人の20歳のころについてインタビューしそれを文章化する課題に取り組んだ。その成果を「20歳のころ」という冊子にまとめている。その第4集の立花隆の巻頭文のなかでいい文章を書くとはどういうことかというようなくだりの最後の部分に以下のような意味のことが書いてある。

日本の教育体系ではもっぱら知識の注入だけが行われており、知的アウトプットの訓練がおざなりにされている。学習とは知的アウトプットができるところまでいって、はじめて完了する。

頭に知識を山のように詰め込んだつもりになっても、その知識をアウトプットする知的文章も書けなければ、知的発言もできない人はバカと同じである。知的アウトプットがゼロの人は、頭に知識がない人と同じである。

文章能力を上げつつある人は、大学入試までもっぱら頼ってきた知的インプット能力を社会に出て勝負するに必要な知的アウトプット能力に転換することに成功しつつある人である、と学生に語りかけている。

私は多分いま遅ればせながらこのHPで知的アウトプットの訓練をしているのである。バカよりは少しましになりつつあるかもしれない。
 

8.自分主体の文章のこと (H14.04.20)

日経ビジネス2002年4月22日号に「癒しの技術 心のモヤモヤ、書いて吐き出す」というタイトルでジャーナルライティングについての記事が出ている。

ジャーナルライティングとは「書くことによって自分の内面を見つめる」ことを目的とした芸術療法の一種で、自分の書いたものを集まりで他人に読んで聞かせる。書く人は「あくまでも自分自身について書く」、聞く人は「他人の書いた物には決して批判も評価もしない」のがルールだそうである。

人に心を開き共感する、ストレスに強くなる効果はさておき、その文章の中で私の目を引いたところがある。東京でジャーナルライティングを企画運営しているという人の言葉の紹介部分である。

日本人は「こうだった」、「こんなことがあった」、と事実関係は羅列できるが、「こう考えている」、「こう感じる」と自分主体の文章を書けない人が多い、と言っているそうである。

私のHPの記事は、まさに私としてはジャーナルライティングの一面もあるという気分なのだが、自分主体の文章だと胸を張れる自信はないのである。
 

9.「断片」ということ (H15.07.30)

山を登るにはいくつかの道がある。道によって見える様相は違う。ということは、どの道を登ってみようかという人の意思によって、同じ山の印象も異なるということである。山についてはそういう論議に異論は出ない。しかし世間のよしなしごとについては、時に視野が狭いとか年甲斐もないとかその言動について批判がでるものである。そういう批判をする人もある視点や立場を前提としている、さらにその前提が他に優れたものと思っているわけである。

このHP「屋久島生活の断片」は「断片」ということに意味を込めている。人が見て考え思うことは、物事の断片でしかない。ここではその視点や立場を誇るものではないから、重厚さや正しさを主張するものではない。しかしある山道から見た眺めである。いろいろな道を登っている人の印象と合わせて見れば、その山の全体像が見えてくるかもしれない。そういう意味合いでこのHPのタイトルを「屋久島生活の断片」としているのである。
 

10.ある本の広告のこと  (H19.07.11)

本日(H19.07.11)の新聞に“ひろ さちや”の“「狂い」のすすめ”(集英社新書)という本の広告があった。そのコピーの文言に共感するところ大なので紹介しておきます。

人生に意味なんてありません。
生き甲斐なんてペテンです-------
気持ちがぐっと楽になる、人生がずっと楽しくなる。逆転の発想のかずかず!

・<世間を信用しないぞ>と、心の中でちょっと呟くだけでいい。
・「狂者の自覚」を持てば、まともな人間になれる。
・生まれてきたついでにのんびり自由に生きる。
・流行に楯突いてはいけません。
・孤独に生きるのではなく、孤独を生きる。
・世間の物差しではない、目盛りのない物差しを。
・老・病・死と仲良くする。
・“希望”という名の欲張りになっていませんか。
・「弱者」は会社の肩書きに頼らない。
・人間は互いに迷惑をかけ合って生きる存在です。

 
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