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  たわごと編: No.470
 
  2018.07.16 あの事件_刑執行コメントに関する感想  
 
  20数年前のテロや無差別殺傷事件を起こした集団の指導者と幹部7人の死刑が執行され、それを受けての報道番組やメディアなどでそれに疑問を呈するコメントをする人たちが結構いた。一つは死刑反対の意見だが、言うなれば非人道的、残酷で犯罪抑止効果はないということのようである。もう一つ私が気になった意見に死刑執行が早すぎるというものもあった。

私は死刑執行については、日本は慎重に判断しているという気はしている。再審申請があることも含め裁判でまだ審理する必要があったのではないかというような事案については執行判断は慎重な気がする。裁判で審理しその罪が誰が見ても疑問の余地なく明白になり刑が確定したならば刑の執行は法の定めるところだから、今回のケースで死刑に反対と言っている人たちは彼らの死刑執行を機に自分たちの死刑反対という主張をしたいからしているわけである。

こういう人たちには、戦争を仕掛けられて戦うのか戦わないのかを問わなければならない。戦争を仕掛けて来た敵と戦って相手を殺すのも非人道的で残酷な行為だが、それが出来る軍事力を保有していたからといって戦争抑止効果が十全でないことは、有史以来戦争がなくならないことが証明している。しかし外交的手段が尽きて非人道的で残酷な行為で挑まれれば同様の手段ででも対応せざるを得ないことはあるわけである。それをしない人ならば、その言うことは信用ならないと私は思ってそういう問い発するわけである。

あの一連の事件には国家に対する反逆という一面がある。無差別大量殺人やテロをやる集団や人間を死刑にしないということになれば、上祐氏の言うがごとく、日本は無差別大量殺人者、テロリストが死刑にならない国家になってしまうことになる。非人道的で残酷だからと、また抑止効果はないからと彼らを死刑にしないならば、日本は非人道的で残酷な行為をする集団や人間にとって自分は死なずに戦いを挑める国家になってしまうことになるわけである。私は抑止効果に疑問があっても軍事力が戦争抑止・安全保障の一手段であるのと同様、ケースにより死刑の存在に意味があるのではないかと思っている。

次に、刑執行は時期尚早だという意見についてである。私の聴いていたところでは、動機や資金源などまだ全容あるいは真相が解明されていないからということのようである。指導者だけ処刑すれば他の人間がもっと話すようになるのではというような意見もあった。しかし、江川紹子氏の言うがごとく、長年の裁判で事実関係はほぼ解明され、共犯者の説得の試みにも指導者は応じなかったということだから、指導者だけがだんまりを決め込んでいたようである。

語らない指導者の内心を含めたなぜという疑問解明の試みをしようとしてももう意味はないとすれば、あの一連の事件についてはもう審理してもその罪が変わることがない状況に至っていることになる。であれば刑が確定したら法に従い執行判断がなされるのは当然であって、その時期云々と今回の執行を批判する人は執行の時期についての自分の尺度を言っているに過ぎない。そもそも裁判で犯罪は立証されているのに、万人が納得するような何かを語るまで執行すべきでないということになれば、語るまでは執行されないのだから、生き延びるためにいつまでも語らなければよいということになって、可笑しなことになってしまうわけである。

補足: 
残った6人も刑執行
2018.07.29
また死刑に対して批判するコメントが見受けられた。私は刑は犯罪に対する対価みたいなもので、犯罪抑止効果など期待されて設けられているとは思っていない。また懲役刑でも犯罪が抑止されているとは思えない。だから犯罪の重さで懲役刑や死刑が下されるものと私は思っている。かつて死刑反対の弁護士が身内を殺され自分の主張は間違っていたと言っていたような記憶がある。当事者感覚からすれば犯罪抑止効果が利かなかった犯罪者にそれ相応の対価・刑を与えるべきということだったかと思われる。

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