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  たわごと編: No.360  
  2016.08.29 相対的貧困_困窮生活と貧乏生活  
 
  NHKが8月18日の「ニュース7」で、神奈川県の設置した「かながわ子どもの貧困対策会議」が開いた「相対的貧困」の見えにくさを考えようというイベントで貧困の現状を知ってもらうために発言した高校3年の女子生徒を取り上げた。それがねつ造報道だとか、女子生徒が本当に貧困なのかという批判が出て話題になったようである。

日本の相対的貧困率がOECDの2000年代半ばの統計では全33ヶ国中ワースト4の約15%であるということ、日本の公的支援はOECD平均(GDPの2.23%)よりずっと少ない(1.34%)ということが発表されて、日本の貧困問題が注目されていが、2014年の日本の国民生活基礎調査で世帯の相対的貧困率が16.1%、これらの世帯で暮らす18歳未満の子どもを対象にした子どもの貧困率も16.3%で過去最悪となったことが、ニュースで取り上げられた背景にあると思われる。

OECD定義の相対的貧困率とは、ざっくりと言えば一般的な家庭の所得の半分に満たない金額で生活する子供を含めた人の割合ということだが、日本の2014年の国民生活基礎調査データに当てはめるとおよそ1人世帯では年収122万円以下、2人世帯では年収173万円以下、3人世帯では年収211万円以下、4人世帯では年収244万円以下だそうである。そういう世帯が16.1%ということらしい。(切り崩し可能資産が考慮されての値なのかどうかは知らないが、考慮されていない相対的貧困率ならその値は現実的ではないことになる。例えば資産がいっぱいあってそれを切り崩しながら生活している無収入の家族が貧困とは言い難い。)

収入が中央値の半分以下なら相対的貧困ということだとすると、比較の問題だから収入の分布によって率は変動はするが世の中で相対的貧困いわゆる貧乏はなくならない。また貧乏な自分が努力して貧乏でなくなれば、誰かが新たに貧乏と分類されることになったりする。しかし自分の努力によって貧乏でなくなれる可能性がない社会であれば、それは問題である。相対的貧困対策というのは努力をすればそれなりに報われる社会とはどういうものかを、そのときの時世に合わせて考えていくしかない。

極端に考えれば相対的貧困率を極小にするには、なんでも平等分配ということになるが、まずこれは人間のあり方・本性からして不可能なことである。また相対的貧困率が高いのが問題になるのは、本当に困窮している人がいる場合である。収入の分布により相対的貧困率が高くても、低収入の人が誰も本当に困窮していないなら貧乏感という感情はぬぐえなくても、努力すれば挽回できる可能性のある社会では問題視する意味はあまりない。

私が思うに、わが国で本当に困窮しているとはどういうことなのかをはっきりさせて、本当の困窮生活ではない貧乏生活ができるようにする。そのための支援が貧困対策の公的支援の基礎ではないかという気がする。相対的貧困を訴えるが何もする気がないあるいは出来なかったりする人への支援の要否はその基礎条件に照らして判定する。そしてまたその基礎的支援の対象かどうかにかかわらず相対的貧困であって向上努力をしようとする人にはそのときの時世に合わせて状況ごとの追加の支援が必要になる。しかし努力したらそれなりに報われる社会にしていくには支援だけではかなわない。社会の階層化・階級化を防ぐ施策も必要な気がしている。

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