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  たわごと編: No.340  
  2016.04.11 すみません_「心」と「言葉」の分裂にあらず  
 
  ネットで、中国の捜狐というメディアが海外留学希望者あるいは留学予定者向けに「日本人的すみません」と題する記事を掲載したことを紹介した記事を見た。私としては又聞きという感じの情報だから本来の趣旨から外れて内容を理解しているかも知れないが、それを見て部分的文言に思った私の感想である。

その記事によれば、「すみません」は謝罪の際にも感謝を示す際にも使われれ、何かを尋ねる場合にまず使う言葉でもある。また日本人は会話の冒頭部分で「すみません」の言葉を無意識に使うが、日本人のコミュニケーションではとても重要で、「本心」でなくとも「場を壊さないため」に使うもので、外国人が「心」と「言葉」を分けて取り繕う悪習と考えがちだが、実際にはそうではなく人間関係を円滑にするための「魔法のことば」だと説明している。

他の内容は割愛するが、記事では「心」と「言葉」が分裂しているが、それは悪気があってではない、と言っているように私は受け取った。そうであるならば、その「心」と「言葉」が分裂しているという認識が記事の前提にあるわけで、そこに私は違和感がある。

私の独断的思いつきで、なぜ違和感があるか書いてみたい。日本人は長らく仏教の教えを心の有り様に反映して来たと私は思っている。そして仏のような気持ちを理想としてそのように生きたいと願いながら生活してきたのではないかと思っている。仏の性質は何でもお見通しだが慈悲深く優しいということである。私はそのお見通しというところが重要な気がしている。

相手の気持ち・内心を見通してそれに沿うような優しい対応をしようということである。言葉で言われなくても、相手の気持ちや意向を見通しそれに対応する。それが理想である。しかし見通しを誤ることがある。それが分かったら「すみません」と謝る。初めはそういうことだったのではないかと思われる。ところが仏のレベルに達するのはなかなか難しいことである。いま自分が見通したと思っていることが、もしかしたら間違っているかもしれない。

そこで「すみません」自分の見通し違いがあったら謝りますが、あなたはこうしてくれる気持ちがありますね、これをお願いできますね、とまず初めに仮定的な謝り言葉を言うようになった。(上下関係があったりするときは「すまないが」などの表現になる。)私にはそう思えるのである。

そして、そういう相手を見通す力の不足を恥じる謝り言葉が慣習化したのが、日本人がよく「すみません」を言う理由だと私は理解しているわけである。そういう意味では、「心」が「言葉」として自然に発せられたもので、「心」と「言葉」の分裂はないと考えられるわけである。

はなしは変わるが、ひとを見通すという事例は中国では昔からあったことではないかという気がしている。宮城谷昌光の古代中国の偉人の小説があるが、広大な大陸で一回会えば何年も会えない人物同士が一目見て相手が心通じる人物だと信頼するような場面がよくあったような記憶がある。日本人作家の思い入れだけの表現でなければ、中国にはそういうひとを見通すことを評価する思想があったからで、それが小説に反映されているのではないかという気がしているのである。その中国のメディアが日本人の「心」と「言葉」が分裂していると誤って認識し、あまつさえそれが日本独自のこととして示しているようなところに、私は違和感を覚えたのである。

またはなしは変わるが、日本人の「おもてなし」が評判だが、これも仏の何でもお見通しだが慈悲深く優しいことを理想にしてきた賜物ではないかと私は思っている。「おもてなし」は慈悲深く優しいということの具体的な実践が慣習化してのことだと思える。私は、「お見通し」と「優しい」、この仏の性質を理想として務めてきた結果が「すみません」と「おもてなし」に表れているのではないかという気がしている。

さらに仏の何でもお見通しだが慈悲深く優しいことを理想にしてきたことの実践が慣習化してきたのが、黙って他人に優しい振る舞いをすることに表れているように思える。例えば行列を作るのもその一例だと思われる。そしてその極みが相手が邪悪だと見通していても優しい言動に出るというような面にも見られるわけである。日本が軟弱外交と言われるのもそういう面が影響しているのかも知れない。欺いてでも勝てばよいという印象が強い韓国や中国は仏教伝来の経由地だがそこに仏がひとのあり方に根付かず、日本に根付いたような気がするのである。いろんな宗教あるいは思想などで「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」ということが勧められているが、洋の東西を問わずそれが一番ひとのあり方に根付いているのは日本ではないかと思われる。
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