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私より数歳年上のある知り合いの女性のはなしである。結婚以来横暴な夫の仕打ちに耐えていたのだが、周囲はそれを分かって苦労していると同情しきりだったひとである。その夫が病気になって入院しいまはもう退院して帰ってくることはない状況らしい。私たち夫婦はそういう状況のときに会う機会があってはなしをしたのだが、夫のことはずっと嫌で嫌でたまらなかったということである。なぜ別れないでやって来たのかと言えば、帰るところがないので自分の生活のための打算と割り切ってのことだそうである。
夫が入院し一人で家に居るようになって清々した気分で毎日を過ごしているのだが、食事どきに食卓の向かいに夫がいないと何か欠けているようでさびしいのだそうである。感情的には居ないで清々しているのだが、何か空間的にさびしいのだそうである。「感情的にではなくて空間的にさびしいのよ」という言葉を聞いて、私はそこに悲しさは感じなかった。例えば絵を描いていてなんとなく落ち着かない感じがしたとき、そのあたりがさびしいからちょっと何かを描き足そうというに似て、空間の安定感を表現している印象だった。私は慣れ親しんだ景色が変わったことに感覚が追従できていないのかな思ってそのときはその言葉を聞いていた。
空間的にさびしいという言葉に興味を覚えてネットでさびしさについて調べてみたら、やはり空間的さびしさと感情的さびしさというのは言葉の上でもあるようである。字で書けば、「寂しい」と「淋しい」というのがあって、どちらも「さびしい」と「さみしい」の二通りの読み方があるのだが、一般的には、「さびしい」は「寂しい」、「さみしい」は「淋しい」と使い分ける傾向があって、「寂しい」は物や人が無いあるいは居ない空間的な状態のとき、「淋しい」は人の感情である愛情の無いあるいは薄い状態のとき使われるということである。
知り合いの女性の空間的に寂しいという表現は、そのひとの言うがごとく感情的なものではないから夫が家に居なくなった状況を悲しんで淋しいと思っているわけではないということは想像どおりだったようである。そしてそのひとが私たち夫婦になぜわざわざ感情的ではなく空間的にだと言ったのかが気になってきたわけである。思うに、ずっと同情的に見てきた私たち夫婦に夫が家に居なくなったいまの自分の思いを正直に伝えてくれたものと思われる。自分の寂しさを空間的と的確に表現して自分のことは心配ないと伝えたかったのだと思い至った。それを知って私たちはその表現の機微とそのひとの人となりに感心することしきりだった。
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