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  たわごと編: No.237  
  2014.08.04 なぜ殺人にいたるのか_いけないと知っているのに  
 
  7月27日に長崎で女子高校生殺人事件が報じられ、またなぜ人を殺してはいけないのかという疑問を投げかける話題を見かけるようになった。その疑問はかつて酒鬼薔薇聖斗が小学生の生首を校門に晒した事件のあった年(1997)、あるTV局の高校生を集めてのトーク番組で一人の高校生がなぜ人を殺してはいけないのか分からないと発言しその疑問に誰も答えを示し得なかったことに端を発している。そしてその後もいろいろな人がその疑問に答えようと試みたが完璧な解は示し得なかったようである。

私自身もなぜ人を殺してはいけないのかということを説明できないのだが、今回の事件でなぜ人を殺してはいけないのかということを子どもに分からせて来なかったのではないかというような意見がまた出ているのを見て、ネットでなぜ人を殺してはいけないのかに関連する記事を探して読んでみた。私が納得できたあるブログの意見よれば、ひとは人を殺してはいけないことは生まれつき知っているからというのがその答えである。そしてそもそも人殺しはいけないことだと知っているから、なぜ人を殺してはいけないのかという疑問が出て来るのであって、その疑問は人殺しは悪いことだとは知っているけれどなぜそうだと知っているのかということを問うているのだということである。

そういうことであるならば例えば、もともと種あるいは種の中のグループを維持していくために備わった性質であるとか、人間の進化の中で自由に人が殺しあっては自分もいつ殺されるか分からないからその不安状態を解消し安心して生きて行けるよう身につけて来たルールだとか、合っているいないは別にして説明はつけられる。自分なりに現実に即し納得すればよいわけである。ルール説ならもし人を殺したらルール違反だとして制裁(死刑・仇討ちなど)を加えることが含まれてもおかしくないわけである。(最近マウスの実験で、あるもので恐怖体験を与えられたメスと恐怖体験のないオスとの間に出来た生まれたばかりの子が母親のメスが恐怖体験したものを恐れることを発見したそうである。そのうち先祖の恐怖体験みたいなものが遺伝的に子孫に伝えられる仕組みが人間にも働いているというようなことが解明されるかも知れない。)

それはそれとして、人殺しは悪いことだと知っているひとが、なぜ人殺しをするのかということの方が私としては関心がある。なぜ人を殺してはいけないかを説くよりは、なぜひとは人殺しをするのかを知る方が人殺しを減らす役に立ちそうな気がするからである。そもそも、ひとはなぜ人を殺すのか。それについて見たネットの記事の中に、ひとが殺人に至る理由というのがあった。殺人の動機は大別して概ね、「自己保存、障害排除、怨恨・報復、快楽・欲求」の4つだそうである。

まず「自己保存」動機の殺人だが、ひとが自己とみなす範囲は広く例えば精神の領域や金品やステータスなど大切なものも含み、それを守ろうとして殺人という手段をとるというものである。(そして緊急避難,正当防衛,戦争などといった場合は、結果として人を殺しても許されることもある。自他の命を守るためにとった行動の結果、誰かの命を奪ってしまっても文句を言われないということである。これを絶対にしてはいけないという人は自分がそういう状況に置かれた場合、他人に殺人を犯させずに済むようにするには、速やかに問題を解決するか、自分の命を自ら犠牲にするしかない。殺すことやむなしという場合もあると言っているわけである。)

次の「障害排除」動機の殺人だが、ひとがなにかを得るためにその障害を排除しようとすることは自然なことだが、その障害を排除しようとして殺人をする場合があるということである。殺人をしなくても目的は達成されることは多いはずだがなぜ殺人に至るのかと言えばそれは、比較的簡単で効果は絶大だからということだそうである。道具を使える人間は簡単に殺人が可能になったので、消してしまえば相手に直接脅かされることがなくなる殺人は完全排除には最も合理的ということである。(害虫を殺さずに追い払う手段はいくらでもあるが、人間は殺虫剤を散布したり潰したりする。相手が人間であるというだけでそれと同じことをする場合があると言っているわけである。)

次の「怨恨・報復」動機の殺人だが、過去において自分の大切なものを失わしめた相手にその代償として時を経た現在に於いて死を求める場合である。私情による殺人ということである。(加害者に対して極刑を求める遺族やその気持ちに同調できる人は自身に内在する殺人を肯定する思想を持っていることになる。何をされても何を失っても殺意を抱かないあるいは抑制できると言えるひとは、極めて少ない。ひとは殺人をいけないとは思っていても殺意を持たないということはないと言っているわけである。)

次の「快楽・欲求」動機の殺人だが、殺すことそのものの課程や結果で快感を得るために殺人するという人間特有の理由による場合である。例えば弱いものを対象とする場合ストレスから破壊衝動に至るのはたやすく、破壊行為そのものが脳内の快楽物質の放出を促すということもある。またストレスの原因となる問題を解決できない自身の弱さを否定するため強さを顕示しようとして自分より弱いものを破壊することでストレスを発散させたり自身を強者と認識することにより大きな快感を得るということもある。また興味本位や個人の性癖から破壊衝動に至る場合もある。そしてそれらの快楽をともなう行動は習慣化しエスカレートしやすくエスカレートしていく中で強さを最も顕示できる行為の一つである殺人に至りいつしかそれ自体を目的とするようになることもある。それが快楽・欲求動機の殺人ということだそうである。(高じて殺人をするに至るかどうかはひとによるが、誰でもその芽になる何らかのストレスや興味あるいは性癖を持っていないことはないと言っているわけである。)

記事では上記の4つ以外の動機については言及していないが、そういうような殺意というものは自覚はなくても誰もが自身の深層に持ち合わせているということである。ほとんどの場合ひとは人を殺してはいけないと知っていて実行に移さないでいるだけであると述べている。以上がひとが殺人に至る理由についての記事の紹介である。ひとが人殺しは悪いことだと分かっていながらもそれを飛び越して殺人に至るということは、ひとにより動機から殺意を催しその殺意に支配されてしまう傾向に大小があるということになりそうだが、その大小が後天的なもの例えば育ちの環境によって決まるということならば殺人抑制の何らかの手はありそうな気がする。マウスの恐怖体験の例のように遺伝的な要素があるとなるとやっかいである。
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