My logbook : 屋久島方丈記 
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  たわごと編: No.148  
  2013.02.04 夢を語らずとも素晴らしい日は来る  
 
  今年初めに見たニュースサイトに出ていた記事のはなしだが、どこかの研究者が言っている。私の受け取り方で以下に紹介する。
「やりたい仕事をしなさいというアドバイスをするのはよくない。好きな仕事を探して何度も転職を繰り返すひとがいる。しかしやりたいことがあってそれにピッタリの仕事が見つかれば即幸せになれると思わない方がよい。仕事とは大変なもので最終的に成功に結び付く能力を磨くには何年もの月日が必要である。即幸せになれると理想の仕事を探しをしても失望の繰り返しに終わるのが落ちだ。大好きな仕事を探し求めるのではなくいまの仕事を大好きになれるよう努力すべきである。一生懸命その努力をした方が価値ある場所へたどり着ける確率はずっと高い。」
大好きな仕事探しは危険が多いということのようである。

それと似たはなしで夢を追うことについてである。まず言葉遊びみたいなことからである。今年になってからも見たが、TVの番組などで一生懸命努力し続ければ夢は必ず叶うと言うのをよく聞くことがあるが、本来夢は現実ではないから夢というわけである。だから叶うとすればそれは本来の夢ではない。それは現実的ではあるが達成することが極めて厳しい具体的な目標あるいは願いである。辞書にはそれも夢の意味のひとつとして載っている。そういういわゆる夢についてのはなしである。そういう夢を達成して夢が叶ったと言っているのだが、現実にはそういう夢を叶えた人は稀だからTVで取り上げられたりするわけである。それにもかかわらず特殊ケースでないかの如く伝えてしまうのは罪作りなことである。

以下もよく論じられていることである。夢を持ち努力をすればそれは叶うという言葉を聞いて、誤解して夢を語ることにこだわって粋がって生きることは止めた方がよい。具体的に自分はどうしたいどうなりたいという目標がないのに何かしなければという意識は高いのかも知れないが、その何か自分がやりたいことなりたいことがどこか外からそれが現れるあるいは示されるのを待っているかの如く何も行動しないで口ばかりということになりかねない。自分の能力と照らして目標が厳しければ厳しいほど目標達成のためには一生懸命努力すること必要なのだが、そうしたからといって誰もが夢・目標を達成できるとは限らない。それなのにいまの自分を知らずあるいはいまの自分を受け入れず夢を語ることにこだわれば根無し草でどこへ流れて行くか分からないことになる。

私は夢を求めてとかこんな夢を果たしたいとか熱心に語っていた何人かの人を知っているが、その夢を果たしたと見える人は少ない感じがする。その人なりに一生懸命努力して挫折したか、一生懸命努力すると言いながらその意味が分からず実際は易きに付いていたか、夢に殉ずる覚悟なく夢を語って努力が足りなかったかあるいは夢を語りたくて軽く夢を語っていた人がほとんどではないかと思われる。そしていまは語っていた夢は何処へという暮らし方をしているように見える。夢に向かって努力をしたという思い出を支えにいまの自分を受け入れるようになっているのかも知れない。

私などは日々の生活を得ることに汲々として夢を語ることもない人生を過ごして来たが、それでも老後の安心のために相当の努力はして来た。私にはそもそも殉ずるべきいわゆる夢もなかったしその気もなかったのだが、生活を得る努力の成り行きまかせでも、いまは人生で一番素晴らしい日々を過ごしているという満足感はある。その日の暮らしを立てて行けるということはいわゆる夢とは程遠いが、そのとき自分が出来るそれなり努力でもそれなりの成果はあったようで、私としてはそれでも夢が叶ったかのような気分ではある。夢のない(多分夢を語らない)男はモテないと言われるが私でも妻と結婚できたから心配ない。何かをしなければという意識だけ高いよりは、そのときの自分を受け入れて分相応そのとき出来るそれなりの努力をする生き方もそれはそれでよいと思われる。そしてその人生にそれなりの満足感はあるのである。実際はこういうひとの方が多いのだとは思われる。
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