My logbook : 屋久島方丈記 
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  たわごと編: No.99  
  2012.04.16 自分を棚に上げていると見られているかも  
 
  以下私・自分を棚に上げての、自分を棚に上げることについてのはなしである。最近ネットや本でそういう類のはなしが幾つか目についた。

入社式で経営トップがグローバル化対応能力の必要性を説くのだがそれを言っている経営者連中のグローバル化対応能力の低いことのほうが問題ではないのかというはなしである。それに似たはなしで、若い者がどんどん活躍できる世の中にと言っている政治家が年取っているのに辞めないで頑張っているというのもある。これらは言うことに間違いはないし権力があるから面と向かって言えないが自己矛盾だと聞く人は思っているから出てきているとはなしだと思われる。

自分のことを棚に上げて言うのは、自分が顧客であったり弱者であったり第三者の場合は大方は許される。たいした文章も書けないのに本を読んであの本はよく書けているとか面白くないとか読者が言うのは勝手である。歌の下手な素人があのプロの歌手は歌が下手だ、あそこをこう歌えばもっとよいとかいうのも勝手である。しかし本人が自分もその中にいて言ったことが自分にも帰って来ることを言うとなれば、かなりの信頼を得ている人でないと聞く側は内心茶々を入れながら聞くことになるということである。しかし言っていることは間違っていないから言う人の立場によってそれなりの影響あるいは効果は期待できると思われる。そしてそれを言っている本人は恥ずかしい気持ちを押さえているかも知れない。あるいはそれを感じないから出世したのかも知れない。

別のはなしである。ある国に住んでいる人が今度の東北の大地震の報道で会社を休んでボランティア活動に行く人のいるのを知って、自分のやるべきことをやってその余裕でボランティアはやるものなのに、常日ごろの自分の生活をなおざりにして(例えば親の面倒などもろくに見ないでいて)そういうときだけ会社を休んででも活動するのは不思議なことだと言っていたというはなしである。人目につき評価されることには会社を休んででもやるが、見返りもなくめだちもしない人の道を厭っているのではないかと感じたのではないかと思われる。強く言えば他人によい人だと言われたいような偽善的な感じがしたということだろうと思われる。

多分会社を休んでボランティアに参加したほとんどの人は、そういう気はさらさらないと思われる。惨状を見て何かしなくてはという気持ちを抑えきれず参加したのだと思われる。私としてはそれが人間社会に出来たキズ穴の機能を周りの人が寄り集まって修復する自然的な営みととりたいのだが、もし偽善的に参加した人がいたとしても活動したことの満足感と被災者から受けた感謝によって身近な陰徳行為についても意識する機会になっていることを期待している。ボランティアに参加した人はみな、私のような電話を掛ければ100円寄付になるというくらいのことしかしない人間より十分立派であるのだから、そうなるはずである。
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