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楽天やユニクロで社内公用語を英語したとかいうニュースをTVで見たときなんか違和感を感じたのだが、私は英会話がろくにできないからそれを批判しても引かれ者の小唄みたいと言われるのが落ちかと思って様子をながめていたところ、文藝春秋11月号の巻頭エッセイで塩野七生氏がそれを最近笑えた話として論評しているのを目にした。
曰く、初めの印象はご冗談でしょうというものだった。そして日本人の精神状態と想像力がより発揮されるのは日本語(母国語)の場合なのにそれに対する配慮が欠けている。日本人同士でも英語というのは自然に反する・無理強いの決定で世界で失笑を買うものである。と、自分の長いイタリア滞在の経験の中での日本語漬けになれる日本への帰国の効用や作家としての想像力(これはあらゆる仕事でも最も重要と思われる)が母国語によって発揮されるという事実を挙げて述べている。
私の場合は、英語が出来ればなんでもできる有能な人間だって言ってるようでちゃんちゃらおかしいという反感がまず最初で、ついで単純に日本人同士でも英語では日本人でなくなるようで変な感じがしたのだが、このエッセイでそうだったのかとその訳がはっきりした感じである。世界共通語に英語がなっているとしても、日本人ならそれが必要なときにのみ使えばよいではないかという自分の感覚が自然なものだと安心できたのである。また私としてはこれからも、英語が話せなくても引け目を感じないですみそうで安心したということでもある。
中学から始まった英語の授業は英文解釈、英文法、英作文の内容が主だったが、社会に出てから最も役に立ったのは英文解釈の試験に備えてテキストを綿密に読み解く勉強をしたことである。文献を読む機会が多かったからそれは助かった。海外駐在員になりたいという同僚は外人の個人教授について英会話を習っていたが、私は入社後、英会話をしなければならないとしても一生のうちのつかの間、多分数回くらいしかない、ほとんど使わないのに習得する必要はないと嘯いて何の努力もしてこなかった。実際も自分の予想通りで特別困ることはなかった。
私は益川さんのノーベル賞受賞が決まった当時、今まで外国に行ったこともなく外国語も堪能でないというはなしを聞いて、英会話ができなくても仕事で成果を挙げれば評価されると安心した記憶がある。しかし日本国内組織の至る所で英語でしか話をしてはいけないとなれば、益川さんほどの人でなければ仕事で成果を挙げる機会を失ったかもしれない。能力に劣る私に当てはめれば多分そいう状況に適応できず、今の私はなく今の暮らしもないかもしれない。私の最初の反感の元はここにある。引かれ者の小唄と言った所以である。
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