屋久島生活の断片・日誌編
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 No.244  コポルのこと  H20.06.02)

5月の下旬、妻の友人が学生時代の同級生で妻も知り合いの人たちと屋久島にやってきた。そして他の人たちが縄文杉登山をする日、妻の友人は登山をしないので我が家を訪ねてくれた。その友人は妻も参加している羊毛の手紡ぎと手織りのグループ・SpinComのメンバーである。そこで妻は屋久島の染織家・日高安子さんの草木染めの店コポルに案内した。

「月刊・染織α(アルファ)」と日高さんの記事
  尾之間にあるコポルの前で

  左から 友人と日高さんと妻

妻が日高安子さんの名を知ったのは屋久島移住以前のことである。妻は羊毛の手紡ぎと手織りが趣味で、今は廃刊となった「染織と生活社」の雑誌「月刊・染織α(アルファ)」を購読していたのだが、1993年9月・No.150の号に「屋久島の色を求めて」という日高さんの記事を見てのことだった。屋久島に移住しようとしていたので印象に強かったようである。移住してから引き合わせてくれる人があって妻も知り合いになり我が家にお出でになったこともある。

日高さんが草木染めを手がける発端は昭和60年ころ、長野・穂高の草木染め手描友禅の野澤光秀先生という人が屋久島の植物に興味を持ちそれらで染色したいと「(株)あずみ野・屋久島生草木染工房」を開設したときに、それまでの職場を辞めて工房に入ったときに遡る。そしてその工房が平成2年閉鎖になってからはしばらく他の仕事をしていたものの、このまま屋久島の草木染めの明かりを消すに忍びないとして自身で草木染めを再開、今日に至っているようである。

妻の友人も若い頃、会社を辞めて日本で「草木染め」という言葉を広めた山崎青樹先生(合成染料との区別のため植物染料による染めを「草木染め」と命名した山崎斌先生の御子息)の通い弟子になって勉強してきた人なので、草木染めを手がけるもの同士顔見知りになったらと、妻はコポルに案内したのである。一期一会かもしれないがお互いに相照らすところがあればということである。


 
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