妻が日高安子さんの名を知ったのは屋久島移住以前のことである。妻は羊毛の手紡ぎと手織りが趣味で、今は廃刊となった「染織と生活社」の雑誌「月刊・染織α(アルファ)」を購読していたのだが、1993年9月・No.150の号に「屋久島の色を求めて」という日高さんの記事を見てのことだった。屋久島に移住しようとしていたので印象に強かったようである。移住してから引き合わせてくれる人があって妻も知り合いになり我が家にお出でになったこともある。
日高さんが草木染めを手がける発端は昭和60年ころ、長野・穂高の草木染め手描友禅の野澤光秀先生という人が屋久島の植物に興味を持ちそれらで染色したいと「(株)あずみ野・屋久島生草木染工房」を開設したときに、それまでの職場を辞めて工房に入ったときに遡る。そしてその工房が平成2年閉鎖になってからはしばらく他の仕事をしていたものの、このまま屋久島の草木染めの明かりを消すに忍びないとして自身で草木染めを再開、今日に至っているようである。