屋久島生活の断片・日誌編
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No.169  遺跡発掘のこと H17.05.23)

5月16日犬の散歩で通っている道の横が草払いされ小屋が立ったり移動式トイレが設置されたりしているところがあった。近所の畑にいて作業している人に聞いたら明日から遺跡の発掘が始まるということである。そういえば先日小島遺跡の発掘作業ボランティア募集という放送があった。それで17日また同じ道を行ったらもう発掘作業が行われていた。

(左):発掘初日
   段々畑の上側と下側で
          発掘していた

         
(左):現発掘場所から海側に行くと農道
   があり、T字路コーナーが関係者
   の駐車場になっているよう
                                 (右):現発掘場所と農道の間に草払い
                      されたところがいくつかあり他の
                      発掘予定地らしい、一箇所には
                     トイレが設置されている

犬と一緒に傍らに行って見学しがてら、誰が学芸員かも分からないので誰にとも無く「ここが遺跡の発掘場所か」と聞くと、しばしして女性の学芸員らしき人が「そうだ」と返事をくれた。「ほかにも草払いしてある場所があるけれども、そこもか」と聞くと、「そうだ」とのことである。「そこが遺跡だということが分かって発掘しているのか」と聞くと、「証拠は、かつて石斧が出たことがあるだけである」、「土器などがでてくれば」ということだった。

その日発掘しているところは、造成された段々畑の一番上に近いところで今も畑として使っているようである。造成されたときにでも石斧が出たところを埋め戻してあるのかもしれない。表土は畑用と思われる暗い茶色で少し掘ると火山灰の明るい茶色の地層である。直近で7000年くらい前に近くで噴火があったらしいからその下なら縄文杉より古い時代ということになりそうである。どのくらいの深さから石斧が出たのか興味のあるところである。

その造成したような段々畑なのが気になって、どのくらいむかしから畑が作られていたのかとか、いつの時代まで石器を使っていたのかとか、土器はいつころまで使われていたのかとか、遺跡と聞くと屋久島の末端では今の文明になりきった境目がどの時代にあるのか知りたくなってくる。屋久島には1200年前くらいから記録にある神社がある。鑑真和尚が漂着し館を建てた浜もある。平家の落人が住み着いたというはなしもある。秀吉の時代に寺だか城の柱に屋久杉を切り出したというはなしもある。それぞれの時代には工具なり道具に鉄が使われていたと思われる。

しかし都を離れた屋久島のそれも小島ではいつの時代から鉄の道具が末端の人に使われるようになったのか、もしかしたらずっとあとまで末端では木や石の道具を使っていたということは考えられないのかと「平安時代になっても石を使っていたということは無いのか」などと聞いてしまった。そうしたら作業している中に知り合いの人がいて、くだらぬことを言っていると思ったか「XXさん、くわしいね」と口封じのちゃちゃを入れられたので、これは反感を買いそうだと早々に退散してきた。

私は遺跡発掘と聞いて何の遺跡か分かっていて言い伝えや状況証拠からそのあたりが遺跡と当たりをつけて発掘しているのかと思ったが、まだ確たる遺跡の証拠はないが石斧が出たところなので発掘してその他の遺物が出れば遺跡だということが分かるということのようである。屋久町では今までに他にも発掘していて役場敷地内に在る中央公民館には出土した遺物を展示してあるのを見たことがあるから、ここでも成果が出るかもしれない。


 
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