屋久島生活の断片・日誌編
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No.167  小川のこと H17.04.18)

私が散歩する道にも小川がいくつもある。橋が架かっていればそれと分かるが、川を埋めた道の下に水路が設けられている川は水音が聞こえなければほとんどが生い茂っている木でそれと分からない。水音がするので覗き込むと川が流れているのが下方や奥の方に見える。

道から外れて川の縁に行けば、
木々のトンネルの下に
名のある渓流のミニチュア版のような
景色が開けて見える。

道の下に水路が通っていて、私の見る範囲では川がそういう部分であふれてしまうのを見たことはないから、大雨が降って増水したときにもその水量に耐えうる開口面積になっているようである。大昔から雨が降ってはそこに水が流れて侵食され岩だらけの谷状になったからか、道から下を見れば流れまでは結構な高さがあるところも多い。

そういう名もないような川がいくつもある。舗装されている道では大体川のあるところだけ道両側にガードレールや柵が設置されている。比較的大きな川には橋がかかっていたりする。その中には集落の境界になっている川もある。私が主に散歩する農道は県道より海側なので、崖から海に流れ込もうとする川は、小川でも橋の架かる集落境界の川でも谷幅が狭く深い感じになる。木も生い茂って下は覗き込まないとよく見えない。

こういう川にはじっくり覗き込んでみると、なかなか趣のあるところもある。有名な渓流の風情と変わらない美しさがある。漠然と眺めれば何の変哲もない雑木林の一部にちょっと水の流れが見え隠れする景色だが、フレームをかぶせるように視界を狭くしてみれば岩の合間を縫って流れる小川のすがすがしい景色が見えて来る。

毎日のように散歩していると同じ景色に慣れてくる。そうなるとちょっとした小さなことにも気をとめるようになる。あそこはどうなっているのかとか、木の芽が吹いてきたとか、花が咲いたとか、何か見慣れぬものが見えたとか。景色を見て、あるいは絵を見て、あるいは音楽を聴いて、あるいは本を読んで何かよい気分になる。それに似た気分をその小さなことに気をとめた瞬間感じることがあるから不思議である。

そんな気分が起こるうちの一つが小川を覗き見ることである。川は見るその時によってあまり変わらないはずなのに、同じところを何度でも覗いてしまう。そしてまた、たまに道を外れて川の縁に行き木に囲まれた空間を流れる川を見ると、さらにその気分が持続して強く感じられることがある。


 
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