私が田舎へ来て15年経った。そして働くのをやめてからもう10年は過ぎた。毎日ただ生きているだけなので、私が居ようが居まいが誰もなんとも思わない、居ることの必要性を感じてくれる人がいない存在なのだなと思うことがある。文芸春秋5月号の巻頭に「誰からも必要とされない存在」という題でコラムが載っていた。
仕事を辞めた人(哲学者で大学の先生だったらしい)が誰にも必要とされない憧れの自由の生活を謳歌しようとしたが、受け取る年金額の少なさに思いつくのは金を使わず長時間時間を過ごすことのできる図書館通いだったというはなしである。これはユーモアとして読むべきと思うが、今までこれだけはすまいと思っていた見ていた中高年の華やかさも活気もない図書館通いしか思いつかなかったと書かれている。
私の思っていることも深刻な思いで言っているのではない。田舎暮らしでもそんなものだということなのである。都会で仕事を辞めた後することがなく時間つぶしに図書館通いを続けるに似たようなものである。大多数の仕事を辞めた人は世の中から何か求められることはなくなる。自分で好きなように出来る範囲でするということになるということである。世の中では生きがい対策や介護や老人医療は進むがこれらを受けることは憧れの自由な生活ではない。憧れの自由生活は自分で作るものである。しかし意に反して図書館通いに似たものに落ち着くことが多いのではないか思われる。
私の生活と言えばほとんどの行動の範囲はおよそ半径10m(あるいは20m四方くらい)の中に納まる。医者通い、たまの買い物は月に数度の例外である。ゴミ捨てや毎日犬の散歩はするが他人との接触はほとんどないからおよそ半径10mと行動の性質は変わらない。つまりは都会での図書館が私のおよそ半径10mなのである。その中で読書や新聞閲覧の代わりに私がしているのが、庭いじりであり、ニュースやミステリーを主にしたTV視聴であり、ネットでの情報閲覧であり、自己満足作文のHP作成である。
多分私が田舎暮らしをしていなくても似たような生活をしていたと思う。自分が好きなことが出来る範囲あるいはその内容は田舎であれ都会であれあまり変わらない。田舎に来たからといって自分の力が変わるものではないからである。田舎に来たころはまだまだ出来る範囲はあるし内容も深まると思わぬでもなかったが、年をとるに従いそれが自分自身を過大評価したがっていたことだと分って来る。結局は好きに暮らしていると言いつつも誰にも必要とされない憧れの自由生活は図書館通いに似たものになっているのである。