3月30日屋久島町のHPを見たら、環境政策課がまちづくりのための意見交換会を開催するとの通知が出ていた。地域の魅力を再構築するために、自然環境に負荷を与えない里地での過ごし方や地域での様々な取り組み、伝統文化など、屋久島の自然と文化を体験できる仕組みづくりについて意見を聞くのだそうである。まちづくりの概念が私と違うのでしっくり来ない。ただ庭造りをして綺麗にしましょうというに似たような感じがして、まちづくりという名にそぐわない感じがしたのである。
まちづくりということに関連するものとして私が知っている情報は、町から配布された平成21年3月付けの「わたしたちのまちの未来(H21〜H30年度)〜第一次振興計画基本構想(概要版)」が一番新しいものである。そこにこれは将来のまちづくりの目標を定めるものだとあるが、読めばこれは素案でこれから審議し議決していくというものらしい。素案から受けた全体的印象では、挙げた現状分析から想定される課題について取り巻く環境の変化を見据えつつどう対応していくかを策定しようということのようである。素案の中で私の最も目を引いたのは、道州制論議もされている、分権型社会到来の前にそれに対応できる行政基盤を構築しておくというような文言である。
ここでは分権が促進されその最終版が道州制と言っているが、その捉え方が問題である。分権が促進されその最終版が道州制という見方に異論はない。しかし素案を見る限り、この権限を委譲しましょう、今度こことここがわが州ということになりました、そう言われても大丈夫なようにしましょうよ、というような捉え方のような感じなのである。それでは今までと変わらない。与えられた条件の下で町をどうしようというのではなく、こういう町にする、活性化が達成された後の町の姿はこうなる、そのためにどう分権させようとか州と町の関係をこうさせようとか、他州にこう打って出ようとか、そういう捉え方をしないと新たな発想は出て来ないという気がしてああそうですかという気分になれない。
環境政策課の言う「地域の魅力を再構築」は、言い換えれば活性化ということだからまちづくりそのものであることは異論はない。しかし挙げられた環境政策にまちづくりの名を冠してしまえば例えば庭を綺麗にしましょというに似た範疇がまちづくりだという誤解を与えてしまう可能性がある。いま考えると恥ずかしながら私は道州制について市町村合併の大きなものくらいにしか認識していなかったし、地方分権というとこれも道州制になって国が地方に税の一部を移行したり交付する金に紐を付けないくらいにしか考えていなかった。それでは既存分野の課題解決に終わる可能性が高い。それに似て住民はまちづくりの本質からずれた認識を持つおそれがある。
私は地方分権と道州制について、修飾語的に深く考えず挿入したかもしれない素案にある「地方分権が促進されその最終版が道州制だ」という文言の意味を理解するようになってからは、まずは町がどういう姿になりたい
、そのためにどうしたいのか、つまり将来像を作ることがまちづくりの第一歩だと思うようになった。それでまちづくりの全体を語らず環境政策にまちづくりの名を冠しているのを見て違和感があったのである。