議員に成果主義を適用と聞けば、公約の達成度を成果としてみる考えだと私は受け取る。民主主義では議員は選挙民の意を受けてその意を果たすべく活動する。そしてその評価は選挙民がするものである。ところが、議会の中で各議員の成果
(何を持って成果というか知らないが)を評価して報酬に反映させようというはなしがあるらしい。議会の現状に不満を持つ人には評価している人もいるかもしれないが、私はこれを評価しない。
どこかの町の議会で議員報酬の一部を能力給にするという案が議決されたということである。議長が住民の中から評価委員を任命しその評価により報酬を増減するらしい。私は議員同士が相互評定するなら選挙で選ばれた議員が納得していればそれでよいと思うが、今回の場合は議長が一段上の権力者になる可能性がある。募集するにしても応募者の中から議長の息のかかった人間を委員に任命すれば政敵に不利な結果が出ることもある。
選挙で選ばれた議員の上にそれを査定する委員ということならその委員はやはり選挙で選ばないと民意を反映した公平性が保たれない。そしてまたその委員が正しいことをしているかを監視する人間がいることになる。選挙で選んだ議員を信頼できないからと言うなら委員でも同じことが言えるからである。際限なく監視するものを監視する、そのものをまた監視するということになる。選挙で選ばれた議員をリコールや選挙などで住民が評価するのではなく、特定のものが評価するということはそういうことである。
議会は最高の議決機関そして議員になりたいものが誰でも立候補できる。そして議員の政治活動と個人の資質は世間に監視され選挙で評価されるのがあるべき姿である。また法を犯した場合は司法の場で裁きを受けるし、議会で進退を含め処分が下されるべきものである。議会・議員活動に議会以外の権力が介入することは民主主義の理念からも疑問である。しっかりと活動する議員のいる議会にしたいなら議員報酬の大幅削減で職業議員排除、ボランティアで誰でも議員になれるような姿勢
でも見せたらどうだというのが、私の感想である。
ところで、しっかり仕事をする議員ばかりになることを望み、それが果たされたら議会の審議結果が期待通りになるものかというはなしである。例えばボランティア議員ばかりになった
(その例の意味として、私は賛成しないし問題だと思っているが議員の査定や立候補者の資格審査を踏まえて議員が選ばれるようになったということも含む)からといって
、しっかり仕事をしない、出来ない議員のいる議会を何とかしたいと現状に不満を持っている人たちが期待する議決をしてくれる議会になる保証はないと思われる。
民主主義ということは選挙民は自分の意向を汲んで活動してくれることを期待して投票するわけである。議員は支持者の期待に応えなければならない。誰かがある議員や議員グループの活動が気に食わない、自分の期待することをしてくれない、陳情しても採用されないなどと言っても彼らは投票した支持者がいたから選ばれたのである。自分が期待することをしてくれる候補者は支持されなかったということかもしれない。そうでないというならリコールで民意を問う道はあるのである。それが通るかどうかは日常活動で選挙民の意識を自分の方向に向けるようにしてきたかどうか、多数の支持を得られるかどうかにかかっている。結局は選挙民の意識に見合った結果しか得られないからである。
補足: 地アタマのこと (H22.04.11)
文芸春秋5月号に佐藤優氏が書いている。政治家の能力は競争試験と関係ない。地アタマこそが必要だ。偏差値秀才は世界を滅ぼす。そういうことをある外国の古典的な本を読み解いて述べている。私が政治家の資格試験や査定のはなしに賛同しないのもそれに似た危険の匂いを感じるからである。いわゆる普通の選挙民より自分の方が頭がよいと思っているバカが、自分の思い通りに行かない人間を排除しようとしてそういうはなしを持ち出すのである。