屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.317 核廃絶のこと  (H21.08.20)

8月と言えば原爆記念日を忘れるわけにはいかない。毎年核兵器廃絶や戦争のない世界を求める声を聞いてきた日である。しかしその声は成果に結びついてこなかった。日本が核廃絶というとき、それは核保有国に廃絶してくれあるいは廃絶させるぞということになる。そして廃絶させるぞと強制して言うことをきかせる力は日本にはないのだから、廃絶してくれと手を変え品を変えて説得するしかないのだが、廃絶するかどうかは相手の意思次第である。

また現実としてアメリカの核抑止力に依存して今の日本がある。アメリカは同盟国が攻撃されたら反撃すると宣言している。核兵器を使ってまで日本を侵略しようとする国があるのかないのかという問題は、その意思は相手国のものであって侵略されることはないという心情とは別物であるから、あると仮定して考えるしかない。そしてアメリカの核抑止力への依存を止めても大丈夫かどうかを試す危険は冒せないのも現実である。

核廃絶は理想の最終目標である。しかし現実には、日本もそうだが核抑止力が自国の防衛や平和に不可欠だと考えている国は多いし、抑止力に留まらない核兵器実用を探る国もあるらしい。そしてそういう核兵器を持っていたい、使いたいという国家を説得しなければ核廃絶への道は前に進めない。ただ廃絶してくれのお題目では進まない。現実に即して核実使用を是とする国を翻意させながら核抑止力を削減しつつ核廃絶の最終目標に収斂させる段階的政策が編み出せるかどうかが問題ということになる。

多分世界中の誰もが核廃絶を本当は望んでいる。核を大量に持ち核の怖さを知っているアメリカ・オバマがそれを宣言(=白状)した。しかしみな自分が弱い立場になりたくない。アメリカ・オバマは核廃絶を叫んだが、アメリカは核抑止力を捨てるわけでない。みなが勢力バランスを維持しながら廃絶に持ち込むには、相当な工夫が必要である。核を廃絶しろ、核兵器反対と叫んでも核保有しているものにその意思がないと成果は出ない。そしてその気にさせるのも核武装力を背景にした脅しと懐柔ということになりそうなところが気になるところである。またさらに、唯一の被爆国である日本は、予想される反核の感情論と一時の方便も見え隠れする現実対応プロセスを国内で調和させるのに苦労するかもしれない。


 
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