屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
                     Home > 目次_top  >  記事

No.310 恐い感じのこと  (H21.06.22)

足利女児殺害事件の犯人として服役していた人が冤罪だったとして17年振りに釈放されたというニュースがあった。先般は防衛医大の教授が痴漢事件の裁判で最高裁までいって無罪となった。こういう結果が出ると、警察や検察の捜査や取調べの実際が冤罪被害者の体験談などで表に出てくる。鹿児島県でも近年志布志事件でそういうことが明らかになっている。

警察あるいは検察がストーリーを組み立て強引に犯人をでっちあげる恐さを感じないわけにはいかない。多分ストーリーとは仮説のことで、普通ならそれが事実の可能性が極めて高いと検証していくのが捜査だと思われる。事件取っ掛かりの状況・証拠・事象をもとに仮説(経験に基づく勘によるかもしれない)を設定しその検証項目を選定し検証方法を決めたり選んで調べその結果を考察する。これらに捜査関係者の能力が問われるわけである。仮説は検証されなければ柔軟に見直し再検証して事実に迫らなければならないのだが、いったん立てた仮説に縛られれば、都合のよい検証結果だけでこじつけたり結果を捏造して誤った仮説を真実として冤罪を生んでしまうことがある。

なぜあたかも信仰のように仮説自体を信じ込んで証拠をそれに合わせようとするのかその理由については分からないが、真実解明よりは事件の表向き解決が優先されているようで恐い。私はミステリードラマが好きでよく見る。最近CSで見たイギリスの迷宮事件捜査のドラマでは警視総監が捜査責任者に感情むき出しで介入してくる。また日本のミステリードラマでも上層部の人間が体面重視のいやらしさを持って表現されているものが結構ある。

これはドラマを面白く見せるために仕立てているかもしれないが、会社生活で組織の性格はトップで変わることを見てきたから、結構実際を示唆しているのかもしれないという気もするのである。ドラマでは主人公は体制に引きずられないのだが、現実はそうではないことが多いのではないかと思ったりして見ている。

警察は悪いことをすれば恐いという一般的な感覚はあったが、警察は警戒しなければいけない恐いものではないかとはじめて思ったのはむかしあるTVニュースを見てのことである。松本サリン事件で河野さんが警察に連れて行かれた後だったか、記者会見で捜査責任者と思われる眼鏡をした人物が河野さんが犯人に間違いない、絶対に落としてみせるみたいなことを無表情な顔つきで言っていたのを見たときである。私の感じではこれだから犯人だと納得させられるものが何もない感じだった。その後の進展で私の直感が当たってしまったが、いったん見込まれたらどうしようもないというような警察の恐さを感じてしまったのである。

警察は世の中・生活の安全に欠かせない。犯罪被害者になったら警察は頼りにすべきものである。犯罪者には警察は恐いものであって欲しい。しかし冤罪事件での警察捜査の実態を垣間見ると、なにもしていなくとも疑われた段階で何をされるか分からないほど警戒しなければならない恐いものでもあることも今の現実かもしれないという気になってしまうのである。


 
 Home   back