屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.295 発信者名のこと  (H21.02.16)

屋久島関係のあるブログ(ハンドルネームで発信しているが復活を期す元町会議員のよう)のある日の記事に炎上とまではいかないが40近くのコメントが付いた。匿名の住民からの人物批判コメント、実名コメントの勧め、コメントは記事の内容そのものに対してすべきというコメントもあった。それを見ての私の、発信者が大方の読者に特定されているブログなどについてあるいは実名・匿名での発言についての感想である。

私が思うにブログやホームページで実名あるいはその人物を特定できるハンドルネーム(芸名やペンネームみたいなものなど:以下では「準実名」と称する)で情報や意見を発信する人は、その名が全国あるいは限定地域で知られている人か仕事がらみの人がほとんどである。そして発信の目的はまずは売名である。芸人や政治家や個人営業その他仕事で名を知らしめたい人はこれにあたる。またそれに知識開陳という目的が付随することもある。政治家や評論家その他能力をアッピールすることで支持を獲得したり顧客の維持獲得を狙っている人はこれも目的にしているはずである。

実名や準実名で情報を発信する人は、人物が特定できるから実際生活での言動とネットでの発言の整合性がチェックされる。例えばブログで立派なことを言っても実際生活での言動とかけ離れていれば、コメントなどでそれが指摘されることになる。むかしから人を判断するには言っていることではなくやっていることを見よという言葉がある。誰と特定できる人物のネットでの発言は実際の生身の人間の行動と合わせて捉えられ過去の言動と総合して評価される。実名や準実名で発信する人物はそれを当然のこととして受け止める覚悟が必要である。

さて次は以上のような範疇に該当しない人間における実名と匿名についてのはなしである。日本人には稀な本音と建前が同じ人間を除けば、恥じらいながら本音・心情を吐露することを目的としている大方の日本人(私もこの部類)には、実名で発信・発言する必然性は無いと思われる。情報を発信するものの責任として実名で発言すべしという意見もあるが、身近な人間にじかに見せることができない本音を自分だと特定されず発言できることは名もない人間には大切である。また仲間内や身内の人間を除くほとんどの読者は発言者名に興味はなく何を言っているかという発言内容そのものに関心があると思われるから、あえて実名にするには他に特別の目的があると思ってよさそうである。

他から見てその必然性がないと思われるのに、一般の名もない人物が実名で発信・発言する場合には、何らかの理由で売名に打って出ている可能性がある。あるいはその名前の人物を知っている関係地域の読者にその存在をアッピールし影響力を行使したいと思っている可能性がある。その名前の人物がうるさ方と目されていれば自分を知られた場合の影響を恐れブログではコメントを控える読者も出てきて提灯をつける読者だけがコメントすることになると見かけの支持率が上がるかもしれない。特に実名コメントを求められればその傾向は強くなると思われる。

ということで実名・準実名で売名やビジネスなどに資することを目的とする人以外では、ブログの発信やのコメントあるいは掲示板投稿などを実名でしなくてはならない理由は無いと思われる。例えばTV街頭インタビューで発言する人の実名を明かさず顔もぼやかしていることがあるのと同じと考えればよい。ネットを利用するにはプロバイダーと実名で契約している人がほとんどであり、ネット上での匿名は実名登録型匿名(いわゆるハンドルネーム)である。犯罪行為をすれば匿名でも履歴から発信元を特定し摘発することが可能だから、名のある人(自分に関係する範囲内で名を見れば誰と分かる人を含む)の言い分に影響されず議論するには言葉以外に惑わされない条件として名のある人も含め匿名にしてしかるべきであると思われる。

ところで私はホームページやブログを出しているが匿名である。ブログではコメントも受け付けていない。自分が公開したものをあいつはこう言っていると見てもらえばそれでよく、議論をする気もない。例えば議論になりそうな話題でも、ネットでは一堂に会して議論するわけもでもなし、異なる意見の人を説得したり不特定多数の見解を統一しようとすることに無理があるから、言い っぱなしに徹しようと思っている。また他人の意見はそれはそれとして読むことにしているが、自分の言動への反映には慎重を期している。


 
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