屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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 No.288 歴史認識のこと  (H20.11.07)

田母神氏が航空幕僚長当時アパグループの主催する懸賞論文『真の近現代史観』に「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣」と言った論文「日本は侵略国家であったのか」を応募し、最優秀賞を受賞していたことが問題とされた。そして公職にいながら国の公式見解と異なる意見を公に主張をしたとして航空幕僚長を解任され定年退職ということになったが、国会でも政府の見解に反する意見を公にする人物を自衛隊トップに任用したことなどで政府の責任が問題となりそうである。

私もその真偽は別にして、心情としては日本が侵略国家だったという言葉を聞きたくない。だから日本は侵略の意図を持っていなかったという思い・前提で歴史上の事象を理解・解釈しようとする人がいることは理解できる。しかしまたその反対の思い・前提に立つ人もいることも知っている。そして歴史上の事象を理解・解釈するときの個人の思いの前提あるいは国家のスタンスすなわちどんな歴史観によって見るかによってそれぞれの歴史認識の間に差が出ることも当然のことである。

多分懸賞論文『真の近現代史観』を募集した団体は、いま日本が国家の公式見解としている歴史認識に反対で、その反対の歴史認識そしてその基にある歴史観が『真』のものであると理路整然と主張してくれる論文を期待していたのではないかと思われる。しかし歴史観は人によって異なる感情論の一面がある。すべての人や国家が共通の歴史認識に至る可能性は低い。そして自分・自国の歴史観とそれによる歴史認識が正しいと主張するのは止められない。個人の歴史観や国家の利益に左右される歴史認識は人それぞれ、国それぞれということである。

『真の近現代史観』というテーマで論文募集ということは、私が素直に受け取れば、自分よがりでない客観性のある『近現代史観』を論証せよということだと思う。そして『真の近現代史観』とは、という問いに応えるには『真』であると主張するために近現代史に対するいろいろな歴史観の比較評価が必要である。それぞれの歴史観を持つものが互いに歴史上の事象における事実と言われるものの真偽を論証しあうことが必要である。その結果各歴史観間での歩み寄りや統一的解釈事項が増えたり、公式見解の修正がもたらされたりする効果が出てくるかもしれない。

私が考える本来の論文募集の目的はその辺にあると思う。果たして田母神論文がそういう目的に応えているのかは疑問である。国家の公式見解としている歴史認識に反対の特定の歴史観が『真』のものであると主張してほしいという期待に応えているだけのように見える。自分が『真』と思っている『近現代史観』の主張に終わっているようである。 また政府公式見解への異議は国のスタンス変更を求めるものだが、身内の一部が外部の手を借りてその異議を唱えているかのような印象もある。

さて田母神氏が航空幕僚長を解任され定年退職になったについては国家の処置としては当然のことであると思われる。『真の近現代史観』とはという問いの答えは人それぞれで定まりがたいから、わが国では国家運営上のスタンスとして国益の観点から公式見解が出されているわけである。その見解を体現すべき地位にある高官はその見解に拘束されるのは当然である。北朝鮮のみならずアメリカでも各軍の最高責任者が公に国家の見解に反する言動をしたら何がしかの処分は必至のはずである。田母神氏は自衛隊幹部 というのは階級ではなく、ポジションであってそれに責任権限がともなっているのだという認識が薄いのかもしれない。軍人が特定の勢力を組んだりそういう勢力に肩入れして政治に容喙することは民主国家では赦されないことでありその芽は摘んでおかなければならない。

ところで、国を守る誇りは過去の行為に間違いがなかったと言える国においてでないと持ち得ないという論理がおかしいことは自明である。そういう論理は政治家や報道機関、知識人が今ある国を守る使命についてあいまいにしてきたつけである。政治家や報道機関、知識人にも反省すべき点はあると思われる。


 
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