屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.287 挨拶のこと  (H20.11.03)

まずは私が挨拶してもされ返されない経験のうちの二例である。散歩でときどき会う人がいる。会うたびにこちらから挨拶・会釈をするのだが、挨拶を返すことがない。理由は分からないがこちらに好意を持っていないことは明らかである。相手は挨拶したくないが、されて返さないことに少しは引け目を感じている様子も見える。何か含むところがあるのだろうが、それがあからさまな敵意となって跳ね返って来ては嫌だから応答ないのに気づかぬ素振りで通り過ぎるようにしている。

あるいはまた、以前話をしたことのある人にその後道で出会って挨拶しようとしたらまったく私がいないような態度で擦れ違う。ロボットのような無機質な目をして感情を殺している様子からその意思として無視あるいは拒絶しているようである。以来何回か挨拶しようと試みたがその切掛けも得られないほどである。それでこちらも知らん顔することになった。情けないことだが私が嫌な奴とみなに言われるような類の言動をよくやる報いかと思われる。

さて挨拶についてのはなしのことである。先日新聞か何かでお辞儀についてのはなしを読んだのだが、サムライの時代のようなその昔には挨拶というのは警戒すべき相手ほど無用の疑念をもたれ報復されないように丁寧にすべきものだったということである。いまは仲間内では挨拶するが警戒を要する人間に対しては敬遠して挨拶することをさける傾向にある。それではますます互いに敵意や警戒心を増幅することになる。と今の時代を心配しているような内容だった。

道で会ってこちらが挨拶しても挨拶を返さない。ということは昔風に言えば私は警戒するほどの相手ではないということである。挨拶する必要もないと私は値踏みされているということである。あるいはまた今風に言えば敬遠するほどに私に対し敵意を秘めているあるいは警戒心を持っているということである。

いずれにしても私は馬鹿かお人よしあるいは嫌な奴というふうに見られていることになる。しかし十分ではないから言うも気恥ずかしいが私は「偏見ご免のたわごと編:No.5」の末尾に述べているように誰にでも優しくあれというのを生きる上での努力目標としている。そしてその一環として、相手を警戒してのことではないところが昔風と異なるが一見昔風に、相手に挨拶を返されなくともなるべく友好的に挨拶することに努めている。

そしてまたそれを今風に見れば、そうすることで敵意や警戒心を増幅して返すことがないから、少なくとも侮られることはあっても敵意をむき出しにして攻撃される可能性は低いという処世術の一面もあることになる。多分嫌な奴というふうに見られているなと感じるときにそういう面が意識される。

私はたいしたことがない人間だし嫌な奴と言われるようなことをやることがある。また人の自分への評価は自分が思っているほどではないし、人のやることを嫌だと言いながら同じ様なことを自分がするのには寛容であるという人間の性向は分かってはいるつもりである。しかしながら現実の言動では思い上がりを抑制できず謙虚になりきれないときも多々ある。返されることのない挨拶が処世術と意識させられる機会はなくなりそうにない。


 
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