屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.282 立派な挨拶のこと  (H20.09.08)

TVニュースを見ていての印象だが今年も事件や災害・事故などが多いようである。大きなものでは秋葉原の無差別殺傷事件、岩手宮城内陸地震、最近ではアフガニスタンでの日本人拉致殺害事件があった。私はそういう事件や災害発生の後、加害者や被害者の関係者や親などが取材を受けたり会見をして思いを述べたり謝ったりするのを見ていて、みな周辺への配慮のある挨拶に加え話す内容もしっかりして立派な態度でよく出来るものだと感心することが多い。

よくそういうニュースを見て妻と話すのだが、自分の子供や連れ合いが事件を起こしたり被害者になったときにあんなにきちんと話が出来ないのではないかということである。普段から漠然とした気持ちで整理されたストーリーのない生活をしている中で突然気持ちと物事の判断を取りまとめてきちんと話せるかというと、まず自分にはなかなか出来ないような気がする。

若いころ私も親しい人間の事故のあと、その弔問の場にいたことがある。亡くなった事情を隠したいその職場の上司から弔問客に黙っていてくれと頼まれたのだが、憤懣やるかたない私は事情を知らない職場の他の人間に突っかかっていって弔問の場を乱れさせてしまったことがある。気持ちを整理し物静かに思い出を語り感謝の念を述べるにはそれ相応の感情抑制と心構えが必要である。むかしからそういう面に私は欠ける。

いま似たような状況に遭遇しても私は気持ちが乱れ事態の理解も不十分なまましどろもどろ取り留めないことをしゃべるのが現実ではないかという気がする。また周辺の人たちへの感謝や謝罪にまで配慮するような余裕はないだろうと思う。特に仕事を離れてからは世間への気構えもなく自分の思いに逆らわず嫌なことには不義理を通して感情的に暮しているから醜態を晒すこと必定である。


 
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