屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.280 フェアプレーのこと  (H20.08.16)

今回の北京オリンピックをTVで見ていて気になったこと二つである。すべての競技を見ているわけではないので全体の印象ということではなくそこに限ったことだと思われる。

まず一つは日本と韓国の女子バドミントンの試合でのことだが、韓国の選手がやたらと審判に異議を申し立てたり不必要な靴紐の結びなおしをする場面である。不利な流れを断ち切るためにあるいは相手の勢いをそぐために何回も試合を中断させる作戦である。際限なくこういう行為をする執念はたいしたものだが、私にはずるいという感じがして仕方がない。儒教の国で礼を重んじ誠実な振る舞いをするのではと思われた国の選手が、ルールで禁じられていないとは言えフェアプレーの精神からはずれたような行為をするのが信じられない感じである。

バドミントンもバレーボールみたいにタイム回数や時間の制限とか審判の権限強化をした方がよい感じである。ああいう行為がルールで許されているかどうか知らないが、テニスとか卓球などはそういう行為がなく見ていてさわやかである。

二つ目は日本選手と中国選手の女子柔道+78kg級の決勝を見たときのことである。中国選手がやたらと帯がほどけるのである。わざと帯をゆるく締めて一回組むごとに帯をゆるませ息を継ぐ時間をとる作戦のようである。審判が地元中国に気を使って反則にしないのかルールで禁じていないのか知らないがずるい感じがしてフェアプレーの精神に反するのではないかという感じである。それこそ儒教の発祥の地の選手であるのに礼にかなった誠実な振る舞いから外れているようで信じられない感じである。

最近品格がよく言われているがそれに習って言えば彼らの行為は品がないのである。そう言うと両方とも日本選手が負けたので、引かれ者の小唄、負け惜しみを言っていると言われるかもしれない。しかし日本が勝って批判的に見られたこともある。かつては競泳で潜水に制限がなかったときにできるだけ潜水してストロークせず勝った。今はルールが変わってなるべく同じ条件で選手の発揮する能力を競うようになってきているが、その日本の潜水の工夫が外国人のしこりとなったからである。

競技自体の工夫さえもルールで規制するのは普通なのだから、スポーツマンシップに悖るような行為ももっと厳しく見る必要がある気がするのである。競技自体での勝敗は結果として受け入れても、ずるいことをするという印象は不信感として残る。競技技術の工夫でさえもそれをしないあるいはできない他の人たちのしこりとなってルールが改正されるのである。ずるはもっと規制されてしかるべきである。

ところでスポーツマンシップというのは処世とは異なった理想を追求しているから以上のような感想を言うのだが、それが選手の品の問題でなくチームとして練られた作戦だったと言うなら、スポーツとは異なる現実の場、特に政治・外交ではこの韓国・中国のようなしたたかな作戦というのは見習った方がよいかもしれない。


 
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