屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.278 時が滲む朝のこと  (H20.08.08)

今回「時が滲む朝」で純文学を対象にした芥川賞を受賞した中国人作家・楊逸が出演した朝日ニュースターのインタビュー番組「ニュースの深層」を見た。そのとき印象に残ったことがある。石原慎太郎が「天安門事件がもたらした残酷で、政治のもたらす人生の主題について書かれていないのでもの足りなかった。通俗小説の域を出ていない」と批評したことに関連してのはなしである。

イギリスやフランスでの中国人の小説は中国の政治的事件・問題を批判的に描いている。そしてその記録文学的なところが人気になったり評価を受けている理由の一つと思われる。しかし私・楊逸の小説はそういう事件などを遠くにおいて自分の思いが時間とともにどのように変わってきたかをベースにして書いた私小説的フィクションであり、政治的事件・問題を追及するものではないから、石原慎太郎の批評は意に介さないというようなことだった。

客観的正義感でいろいろな行動を起こし発言する人たちは立派な人たちである。しかしその場に参画しないあるいはそういう行動への共感を敢て表明しない人たちを批判的に捉えることは問題だと言っているように私は受け取った。遠くから眺めているからこそ、そのときそのときあるいは時を経ての自分の思いの変化を主観的に表現できることもあるという言葉に、そんな感じでHP記事を書くこともある私は共感してしまった。

(注: 私はまだ「時が滲む朝」を読んでいない。本文はTV番組を見てのはなしである。)


 
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