屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.274 しらばくれること  (H20.07.07)

よく政治家や官庁の問題追及や事実確認あるいは不正や公害が疑われる団体・企業の会見ニュースなどで、事例を挙げて質問されても、その事例の有無や誤りを指摘せずただ誠実に対応しているとか規則通りにやっているとか答えるばかりで質問の本質を避ける例を見ることがある。質問にある事例を認めることを意識して避けるのである。私はそういうのを見ると、回答者側が自身の不利を知っていてそれを隠したいがあとで嘘をついたと言われないようにそうしていると思ってしまう。

ある会社とのあいだで、就業規則に定めたことを守らないのでいちいち証拠を挙げ何項目かの事例について回答を求めたことがある。回答は規則にこうあるのでそれに従って対処しているというものだった。再度個々の証拠について細かく問題を指摘しても、その個々の証拠を論ずることなく、規則に従って対処しているとの一点張りである。証拠としてあげている事柄に触れることを避けているのである。何回回答要求しても状況は変わらない。

そこで事例と証拠とやり取りの経過を添えて労働基準監督署に送付し問題として取りあげて欲しいと依頼をした。回答はその企業について噂は聞いているが取りあげるのは難しいという回答だった。個々の事例と証拠についてどういう見解・判断があるのかという回答は無かった。地元大企業であるからか中身に触れて見解・判断を示すことを回避している印象であった。どこまでも納得しないなら裁判でやる手はあると担当者は言っていたが、一般市民のささやかな金額の問題で裁判は負担だからそれで口封じされたような気分だった。

それでも裁判が出来る人たちならまだ救われる余地はある。よい結果が出る保証はないが事実を論じることを回避しているものを追求できる可能性がある。しかし相手に権力があって実際次の手が打てない場合に、質問なりクレームなりで証拠を挙げ問題を指摘しても、その本質を論ぜず事実を避けて答えて来られると残るは不信感である。なにかズルをしている。逃げている。こういう輩は信用ならない。そう思ってしまうのである。

政治家あるいは官僚、社長や役員の会見や交渉のニュースでの答弁・発言にそういう思いをもつことは多い。しかしそういう状況を追求する「ちから」は弱い。自分がそういう思いを持ってしかるべき側なのに強い側の人間だと錯覚ある いは思いこまないと生きていけないのかも知れない。そしてしらばくれて強がる状況がまともなこととして世の中に蔓延しているのかも知れない。以前はしらばくれたりするにしても内心では後ろめたさを感じているように見えることもあったが、劇場型政治手法が目立ってきてからはそういうことも少なくなっているように見える。

私の場合そういう不誠実さに刃向かって人事関係部課長そして監督署の担当くらいまでは筋を通そうと試みたが挫折した。確かにドン・キホーテになるのも当然かもしれない。日本の頂点らしき経団連の会長の会社だって偽装請負をしていたりしたのである。いわんや世間で常時関心をもって見られていないところにおいておやである。そして不誠実に曝されること派遣労働者に限らない。不都合に触れないようにしてあるいは不都合に鈍感なことを自覚せず自分たちの都合を押しつけてくることは至るところにある。


 
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