屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.270 屋久島(146):人それぞれのこと    (H20.05.26)

私は屋久島に移住した理由はと問われると、それは屋久島を選んだ理由なのか田舎暮らしを選んだ理由なのか、どちらなのかととまどうときがある。私にとっては、観光地の行き先を選んだに似た感じなのが屋久島で、なぜ田舎暮らしをしたいと思うようになったかというその訳が移住の理由である。しかし屋久島という場所の魅力を移住の主たる理由として挙げる人やそういう答えを期待する地元の人がいないわけではないから、気を遣ってしまうのである。

そういう話題の場で自分の考えをはっきり表現できない私だが、移住理由として屋久島にあこがれてとか自然に惹かれてとかロマンチックに言う人のその言葉は信じないことにしている。「屋久島に移住した理由」と言う場合、「屋久島にした理由」より「移住した理由」という方のウエイトが格段に大きかったはずだと私は思っているからである。そして後者には人それぞれ自分の過去と切り離せずはっきりと表現できないあるいは言いたくない気持ちの部分が多いはずだと思っている。

私がそう思うのは、きっちりとそれを説明したいと思わないし、しようとしても自分でははっきり表現できないところもあるからである。しかしそうであっても移住後の暮らし方にそれは反映されていると思われる。読み取れる人はそれを読み取れるし、読み取れない人は読み取れない。それでよいと私は思っている。だから他人のことについても、人それぞれの暮らし方がその人それぞれの移住理由の延長線上にあると思って興味はあっても強いて詮索することはせず、その暮らし方を眺めるだけにしている。

そして私の暮らし方はと言えば、いまのところ他人との交わりも必要最小限にして忙しく動き回ることもない静かな生活である。とは言っても自分なりにすることはあって暇が気になるほど暇ではない。妻も同様である。というより妻の方がしっかりやりたいことが分かって毎日を過ごしている。

大体にして自分の弱点を認めて素直に生きようとしている人はやさしい。他人を非難せず物静かである。そして何かしたいことを持っていて、自分なりにそこでの成長を実感することを目標とした生き方をしているように見える。現実の生活意識や行動の成果を問われれば恥じ入るばかりだが、私たちもそういう生き方がよいと思いそうありたいと暮らしているつもりでいる。

そういう日々の中で時に他人から屋久島に来て暇じゃないですかと言われることがある。思うにそう言う人はたいてい何か自分でしたいことがないようである。自分ですることがないから他人も暇だと思っているようである。そして何となく屋久島に来て暮らせば向こうから自分のやりたいことがやってくる。そう思って来たのに何も見つからない。そこで他人はどうなのかと気になって暇じゃないかと問うているのではないかと思われる。

そういう人からはまた、自分は優れているのにそれに見合った生き方が出来ていない。だから今の自分は本当の自分ではないと言っているような印象を受けることが多い。そういう感じの人は他人の話を聞きたがる一方で自分の優位を知らしめたいようで、いままで他人が一目置くような何々をやってきたとか言うような傾向がある。こういう傾向というのは、世間とか他人に評価されることを目標にして何かやれることを探している証拠のように思える。

また自分は優れているという意識からかそういう人は他人を批判的に見るところがある。自分の思いに合わなければ他人が何かしていることを批判したりする。自分が何をしたいか分かっていないのに他人が持っているそれを今の本当でないという自分があれこれ評価するのである。自分の弱点を隠して他人に認めてもらおうとしている限り、他人のはなしの中にそれを見つけようといくら聞いて回っても自分のしたいことが何かは分からないと思われる。


 
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