屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.267 礼状のこと    (H20.04.14)

何か送ってもらったときはお礼なり着いたことの連絡をするのは礼儀である。私は何か送って着いたかどうか気になる方だから、私に送ってもらったときには相手も着いたかどうか気になるだろうと思うから礼を欠くようなことはしないことにしている。しかしそのやり方については少しこだわっている。

私は贈答品を貰っても電話でお礼を言うことはほとんどしない。大体は妻がらみのことが多いから妻がするということもある。妻は電話で受け取った旨の連絡とお礼を兼ねて電話することが苦にならないようだが、私は本当に親しい間柄とかどうしてもという訳が あるとき以外はしない。そのかわり礼状を出すことにしている。例えばいろんなところに送ってその相手から次々にお礼の電話を受けるほうの身になってみれば、時間も不確定だしその都度社交辞令を繰り返さなければならないのも負担である。だから礼状を出す方が電話でお礼を言うより礼儀にかなうのだと人に教えられたことがある。

というのはひとつの言い訳であって、その他の理由の方が大きいかもしれない。お礼とかお祝いとかお悔やみとかお願いとかとなると自然下手に出て相手に気配りして話しをすることが多いのだが、相手の人によって不快な気持ちになることがある。この年になるとそういう可能性を避けてもよいかなと思うようになったからである。こちらの対応が悪いのでそういう結果を招いているのかもしれないし相手に含むところがあるのかもしれない。いずれにしても自分が不快な気分にならないようにするには電話より手紙が良いようである。手紙でも不快になることはあるが直接嫌な口ぶりに接することが無いだけ互いにためになると思われる。

そこで私の言う不快な気分の例である。何年か前のことである。相手が私に話すことが無い、そして私も話すことが無い相手なのに、無理やり互いに話さざるを得なくなったことがある。用事があって話していた人が善意で懐かしいだろうからとそばにいたその話すことも無い相手を強引に電話口に出させたのである。そこで私は我慢して用事があって話していた人の顔をつぶさないように話をしようとしていたのだが、替わった相手に挨拶のあと正直にお宅と話すことは無いのだがと言われてしまった。電話に出させたおせっかいなやつに本当に腹が立ったが、社交辞令で適当に流し話を終わらせればよいものを拒絶的な言葉を言うその相手にも内心礼儀しらずと不快に思ったものである。しかし話すことの無い相手は困った末のことだったかもしれない。

次はさらにもっとむかしのことである。私は知らなかったのだがそこの子供に名誉な出来事があって新聞で報道されたとその親から新聞の切抜きが送られてきた。わざわざ切抜きを送って知らせてくるからには讃えて貰いたいに違いない。そう思ってお祝いの電話をしたのだが、意に反して相手はたいしたことも無いのに何で電話などしてくるのかという感じで冷めた対応をされたことがある。それじゃなんで切抜きなど送ってくるのかと思いつつ、自分の子供はお前のところとは違うのだという優越感でそうしているのかと不快な気分になったことがある。

こういうことは人によりけりである。大体はそういうことは気にならない人である。しかしこれからも縁は切れない間柄では不快感を引きずるようになると不幸である。だからするような話のない人と電話で話すことに少々臆病になっている。話しをして不快な気分になったことのある人とはなおさらである。同じことが相手から私を見ても言えるかもしれない。そこで私は手紙にする方が無難であると思うようになったのである。電話で話しをしない方がお互いのためであるという気がしてそうするのである。


 
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