屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.257 うまいということ    (H19.12.03)

最近食べ物のブランドを偽って売って問題になった有名な店がある。一連の食品偽装事件につられて表面化したが、消費者から文句が出て偽装が発覚したわけではないようだからその製品を買ったりあるいは貰ったりして食った人間・消費者はうまいうまいと言って食ったか味に疑問を持たなかったと思われる。

ブランド品はその名を聞いて食えばそんな気がして上等だと思いこんでしまうもので、普通のものとブランド品を中身だけ並べてあったら本当はどれがどれだか分からないのが実態だからそういうことが起こるに違いない。そういう疑問は誰でも持っている。あるTVで宮崎地鶏売り込みで有名になった東国原知事に宮崎地鶏と他の地鶏などを並べブラインドテストを仕掛けたのだが、東国原知事は宮崎地鶏を見分けられなかった。うまいうまいと言ってはいても食って違いはあまりないようだという証拠の一つである。

偽装していてもうまいうまいと食っていた人間は、本物を食っても偽物を食ってもブランド名を言われていればそれを信じてうまいうまいと言っているのか、あるいはブランド品と言われてそれを疑う余地もないほど偽物をうまいと感じたのか気になるところである。私は本物か偽物か区別する力はない、ただまずくなければはうまいうまいと言って食う。自分でうまいと感じればそれでよいのではと思っている。有名ブランド品はその名が付いていれば多数の評価の結果だから外れはないだろうと、買うに迷ったとき頼りにするくらいのものである。

美術工芸品についても似たような思いを持っている。なんとか鑑定団などで評価される作品は、儲けるかどうかという点で個人的に高額鑑定品に興味はある。あるいは依頼者が良いと思わないものでも歴史的学問的価値があるかもしれないと鑑定してもらうことは納得する。しかし、自分が魅力を感じないのに誰かにすばらしい価値があると言われ高い金を払ってそれを買い、高額鑑定結果を期待している人を見ると 味も分からずブランド品の食い物を買ったりする人とダブって見える。

人が良いものだと言おうが、自分が良いと感じなければ見て楽しむことは出来ない。世の中で高額と評価されていれば大金を持っているに似た気分を楽しむことは出来ても、作品を楽しむことは出来ない。絵とか書、掛け軸、焼き物など、それぞれ自分が良いと思えばよい。私は自分ではそもそも高額なものを持てないから、負け惜しみ半分だがそう思っている。

音楽だってそうである。いまは芸術と言ってあがめているような感じのクラッシックは何となく堅苦しい。いろいろな理屈や来歴の解説を抜きにして音楽そのものを聴いてきれいな音だ、声だ、曲だと思えればそれでよい気がする。作られた当時は娯楽だったものが、時代を経て高尚さを売り物にするようになり聴いて楽しくないものも出てきたのではないか。私は権威と言われる人の書いた本に乗せられて紹介されたレコードを沢山買ったが、聴いて楽しくないものは結構ある。自分が良いと感じなければ、高い評価を受けていると言われても次は聴く気にならない。

偽装の横行、あるいは高額鑑定や高評価に一喜一憂するのは、他人の感覚を鵜呑みにしたり権威の言うことに乗せられたりして、他人の感覚による評価を自分のものとしているところに原因がある。それでだまされたりするのである。賞味や鑑賞する能力がないあるいは金もないひがみかもしれないが、自分が良いと思わぬものは、うまくもないし美しくもないし楽しくもないのだから自分の感覚に自信を持てばよいと私は思っている。

勿論他人の感覚を押しつけられたくないだけだから、他人の感覚はそれはそれで尊重するのは前提ではある。私は美術館や博物館に所蔵されるものにはそれなりの価値があることを否定するものではない。見学もする。権威の鑑定や世間の評判についても同様である。ワインの銘柄を見たりもする。

ただ自分が好きになれないものは、見ても聴いても、食っても楽しくない。また古くて好みに合わない高額なものより、好みに合えば安物や新しいものや偽物でも気にしないと言っているのである。ただし、食い物などは安全が保証されていることが必要である。


 
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