屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.214 ご発言メモのこと  H18.07.24)

昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなったのはA級戦犯など先の大戦に責任があると思われる人間が合祀されたことを不快に思ってのことと読み取れる発言メモが報道され、それは8月15日を前にしての胡散臭いメモだと言う人もいれば、昭和天皇が言われていないが平和天皇のイメージの保持強化を願って書いたメモではないかという人もいれば、メモにあるようなことを昭和天皇が言われたことは真実ではないかという人もいる。

いずれが正しいか分からないが、靖国神社側からの参拝要請はあったらしいが昭和天皇(今上天皇も)の靖国参拝はA級戦犯など合祀以降ないことは事実である。それを含め検証していく必要はあると思われる。

それはさておき、私が素人考えで昭和天皇が参拝されなくなった理由は、日本を戦争に引きずり込むことに加担したあるいは自分の意に反し戦争を自分の名で始めさせるように追い込むことに加担した人間を合祀したことを不快に思われてのことだと素直に受け取っている。

私は、A級戦犯などを合祀したことに批判的である。後付の理屈かもしれないが、戦争犯罪については日本だけが不当性を主張しても受け入れた裁判結果がなくなるわけではなく歴史として残っているのだから、世界で不当という歴史認識が理解されるまでは避けるべきことだったと思う。理解されてから国内で適否を論議すべきことだったように思える。今は国の象徴である天皇陛下や国を代表する総理大臣など政府関係者は国際的に正当化されるまで参拝しないのがあるべき姿であると思われる。

しかし中韓の圧力で参拝しないというように見えては日本にとって面白くない。靖国神社を国の象徴である天皇陛下や国を代表する総理大臣など政府関係者が裁判結果の不当性について国際理解が進む前でも、何とか公式に参拝できるようにしたいものである。靖国神社が知らぬうちに自主的に分祀してくれればよいのだが、教義がなんとかどうとか理屈をつけているらしい。人が作ったものが永久不変ということはない。宗教の教義だって歴史的な変遷があったのではないか。

私の神社についての知識では、朝廷が不遇の死に追いやったり討伐した相手が祟らないようにと自分の都合でつくったのが実在した人を祭る神社みたいである。もし神道の伝統とはそういう流れの中にあるもので神社に上記のような意味合いがあるのなら、そしてその総元締めが天皇家であると暗黙にしろ意識されているなら、天皇家が不快に思うことをする宮司の判断に問題があることになる。こういう見方で教義解釈し問題解決を図った例が歴史上ないだろうかと思ったりする。

また亡くなった人を仏とか神とか言うのは尊称としてであり、生きていた人をほんとに神だと信じている人はほとんどいないと思われる。寺には先祖の墓がありお参りする、正月には神社に初詣に行く、そういう人がキリスト教会で結婚式を挙げるようなことは日常よく見るところである。靖国神社はキリスト教信者をも祭っているらしいし、ほとんどの人にとって寺・神社・教会は信教の自由とはかけ離れたただの儀式を行う施設的意味合いになっているのではないか。靖国神社を神社という名の戦没者追悼施設にしてしまえという思いにかられたりもする。しかし日本の精神文化の一端を担う神社の存在がこれでは薄くなる一方である。靖国神社が知らぬうちに自主的に分祀してくれればそういう心配もなくなるのに。

ところで、小泉首相の心の問題のことである。心とは何か。分かっている人はいないのではないか。分かろうと研究してはいるだろうが現状分からないのではないか。それを心だ心だと言っても人々は真意を理解できないと思われる。やはり具体的になになにのためになになにをすると言えばよい。昭和天皇が言われたというメモの言葉の方にはそういう説得力がある。さて小泉総理に戦争裁判の結果を受け入れている日本の総理大臣がなぜその結果を尊重していないような行動をとるのか、その心はと問えば、その心は戦没者に誠をささげるためと答える。だがそれでは答えになっていない。矛盾を説明納得させるものがないのである。明らかにしては困る真意があるから、ずるく誰も理解できない心を持ち出していると見えるのである。

総理大臣が国として守るべき約束を破っても心の問題から破ったのならそれは赦されるというのは、詭弁である。そしてそれは公的私的を区別する論理と同じ本質のごまかしである。


 
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