屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.204 ある論理のこと  H18.03.27)

報道によると3月16日アメリカ政府が、「米国の国家安全保障戦略」を約3年半ぶりに改定し公表したとのことである。「必要であれば自衛の原則の下、敵から攻撃を受ける時間や場所に不確実性があっても先制攻撃を排除しない」といわゆるブッシュ・ドクトリンと言われてきたものを明示しているそうである。

これでアメリカが第2次世界大戦の日本やドイツの正当性を認めたに等しいという向きもあるが、私はアメリカはそうは思っていないと思う。ただ自国の立場が脅かされることに耐えられない、ルールを守って自国が不利になるならルールを曲げてでも防いでいいじゃないかということである。アメリカが脅かされるときにだけそれは許されるとアメリカは思っているということではないかと思われる。

しかしこういうふうに考えるのはアメリカ独特のものではない。いろいろなところでそういうことは行われている。個人、組織あるいは国家それぞれ内面に自分がよければかまわないという意識を隠している。それを表に出した一例が、ブッシュ・ドクトリンである。そのもとの考え方を「ある論理」ということにする。

極端な例では、北朝鮮の拉致、冷戦時の国家情報機関の工作、そしていまでも行われているに違いないその他いろいろな国のスパイ活動などもその論理による活動の類である。映画で007が証拠をさがしているあいだにも人を殺す場面がよくあるが、観客はそれを当たり前のように見ている。普通は明らかになれば非難の対象になることでも、それをする側に立って見ていれば「ある論理」での活動に疑問を持たない人間が多いということである。

そういう世界的にはびこっている論理は日本でのいろいろな出来事にも見て取れる。日本では、組織のために法を曲げた活動をして、その不正な活動が問題にされず成果を出せば、組織内で評価されるあるいは不問に付される風土がある。皆それは問題のある活動だと分かってはいる。しかし、自分が生きる狭い空間・組織・世界の中でしか通じない大義名分・理屈をつけて少々法を曲げた活動をしても許されると考える人が多いということである。

まず、身近な地方行政では、地域の経済活動と住民の生活維持のためにと言って、法律の網をくぐり、地元業者と語らって談合入札・事業配分を行うことが、また国の官僚組織では天下り体制維持のため長年にわたって組織的に引き継ぎながら、発注先業者を巻き込んで官製談合をしたり、言うことの聞き具合に応じて事業配分をしたりすることが、マスコミをよくにぎわすが、その行動の論理構造は「ある論理」と同じに見える。

次に、有名な会社でも、会社の存続と利益ために、法や規則をさておいて、社員を巻き込んで、欠陥・不良隠しなどの不正活動をする。この話題もマスコミをにぎわしてまだ記憶にあたらしいが、その行動の論理構造も「ある論理」と同じに見える。

また、ある教団では、犯罪追及回避のために、教祖自らを法として、信者を巻き込み、大量殺人を図る。11年前にあったことである。信者は人生の不安を逆手にとられ悪事に加担してしまったが、教団行動の論理構造も「ある論理」と同じに見える。

個人レベルで見れば自分が属する組織・世界で生きていくために、あるいは/すなわち、家庭生活や地位維持のために、「ある論理」を自ら掲げたり、「ある論理」に引きずられて、法や規則に目をつぶり、同僚や上司と語らって、不正な活動を企てたりそれに加担したりする。冒頭に述べたようにこういうことは日本では問題を起こさなければ不問に付されて来たから、程度の大小を問わなければ誰でも思い当たる節はあると思われる。

どれも組織や個人が、自分が不安に思っていることが起きないよう先手を打って曲がったことでもやってしまうという例である。この類似性から考えれば、個人としても「ある論理」で活動してしまう可能性のある人間が、組織や国家の「ある論理」を強く非難できない弱みがある。それぞれ小さなことから大きなことまで「ある論理」で活動する可能性がある、あるいはしていると思われる、ということである。

「ある論理」は、はなしの分からぬやつはぶん殴るに似て、どんな個人でも心の片隅でそういう誘惑に駆られるし、実行する人間もいる。その個人が組織や国家を構成している。不安を煽られれば、大方の個人は組織や国家が「ある論理」をとるのに抵抗しがたい。

世の中、人それぞれ気になる不安はいろいろある。組織の方針、国家の政策、宗教の教義、いろいろ工夫は凝らしても人の不安は尽きることはないと思われる。今後も「ある論理」は処を変え、目先を変えて出てくるものと思われる。


 
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