屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
                     Home > 目次_top  >  記事

No.125 記憶を憎むこと H15.08.11)

最近読んだ玄侑宗久著の「まわりみち極楽論」(朝日新聞社刊)のなかの一節をなるほどと思い出していた。「知っている相手の場合はこれまでの出来事の記憶が蓄積されている。憎らしいと思っていた人に会うとその記憶がよみがえる。人はその人を憎んでいるのではなくその人に関する自分の記憶を憎んでいる。今日は別にいやなことをしていない。それなのに過去の記憶の延長上にしかその人を見ることは出来ない。」 

つい最近ある店で買い物をしていたら、数年前辞めた職場にいた若い人間を見かけた。何気なしに目で追いかけていたのだが相手はこちらと目を合わすことを避けているようである。職場ではこちらは年でもあり自分の健康と安全を旨としていたから相手の粋がってがむしゃらにやる仕事の仕方に危険を感じて敬遠したり、批判的だった。相手は自分を邪魔するやつと思っていたに違いない。それがずっと尾を引いているようである。上記の一節のような心境かと相手の様子を見て思っていたのである。

私も過去の記憶にしつっこい。このHPではそういう思いが根底にある記事が多いと自分でも分かっている。「今まで生きてきた長い時間の記憶から開放されてニュートラルに戻る。」 あらたに始めればよいのだとあるのだが、なかなかそういう心境になれない。お見通しの上で優しくの心境はまだ努力目標である。

カーネギーの「人を動かす」などにもあった気がするが、まず自分が変わらなければならないという教えは洋の東西を問わず、変わらないようである。「好かれることが自己実現への一番の早道である。好きになった人の言うことは理解しようとするし、多少分からなくても認めようとする。」ということである。まだまだ私は人に好かれるような領域に達していない。気にかかることをあからさまに表に出してしまうらしく、妻によく注意される。

「人間の他人に対する認識は、言ったことや行動という経験の蓄積で決まるから言葉や行いを慎むに越したことはない。とことん議論すればその場では許せる気になっても、人間はあとから根掘り葉掘りいろいろ考える。同じ材料が全く違う理屈の証拠になったりする。妙な材料は与えないほうがよい。」ということである。私は言葉少なく、言うことも当たり障りなく、まあお人よしだと思われるような毎日を送っているつもりなのだが、ときどき気に触って爆発するときもある。そうありたいと振舞っているだけで内心まだ色気があるのである。


補足: こじつけのような感想のこと (H15.08.11)

もう一つ本を読んでの感想である。人に好かれることをもっと拡大して結論付けていると私がこじつけて受け取ったことがある。大沢真幸著「文明の内なる衝突 [テロ後の世界を考える] 」(NHKブックス)を読んでのことである。

資本主義とイスラムの違いを論じてから、両者共存の可能性について「両者がともに認める善や正義を探ろうとしても、見つかるまい。両者に共通しているのは、どちらも変容しうるということ、どちらも「何かであること」を根本から否定し、無化できるということである。こうした否定性において両者は共通しているのだ。両者を共通に囲う<普遍性>は、アイデンティティの変容において見出されるのである。」と述べている。

その前段では、テロについて「テロリストを困らせること、テロリストを真に出し抜くこととは、テロリストの敵であるわれわれが、彼らの観点から見て、「善」と映ずること、「正義」と映ずることを行ってしまうことだ。具体的に言えば、テロリストに対して、喜捨=贈与を行うことである。」、「軍事行動よりはるかに効果的な「テロ対策」なのである。」とあって赦すことができないことを赦すことによる可能性を示唆している。

この本は私には言葉や言い回しが難しい。だからなんとなくそう思うのだが、これらの論は、人に好かれるようになれ、それにはまず自分が変わらなければならないというようなことを回りくどく言っている感がある。そんな感想を持ったのである。


 
 Home   back